旧暦の六月、鹿児島県内の主な神社では「六月灯」というお祭りが行われます。境内に灯籠が飾られ、多くの露店で賑わいます。
その中でも、鹿児島市の繁華街である天文館に近い、照国神社が一番多くの参拝者を集めます。
私も若かりしときの青春の1頁は「六月灯」の記憶とともにあります。
照国神社は桜島と鹿児島市街地を一望できる城山の麓にあります。御祭神は島津家28代当主(薩摩藩11代藩主)の島津斉彬公です。地元なので「公」を付けさせていただきます。
島津家は鎌倉時代に源頼朝から、薩摩、大隅、日向3ヶ国の守護職に任ぜられ、それ以来、明治維新に至るまで、この南九州から一貫して離れることなく連綿として続いた名家です。
細川家や伊達家も古いといっても、一度も移封されることなく、同じ地に割拠し続けたというのは奇跡というしかありません。
島津に「バカ殿なし」と言われるほど、歴代の当主は名君で、特に戦国時代の島津義久・義弘兄弟のときは大友宗麟を国東半島まで追い詰め、九州完全制覇まであと一歩のところまで来たのですが、豊臣秀吉の九州征伐の前に夢は途切れてしまいました。
しかし、その後も朝鮮出兵や関ヶ原の戦いなどのピンチを切り抜け、江戸時代には薩摩藩77万石という外様大藩の地位を獲得します。
そして幕末に、名君中の名君と謳われる斉彬公が現われます。
歴史の結果を知っている我々には、徳川将軍家と薩摩藩はもともとから仲が悪かったと思いがちですが、実は斉彬公の頃までは島津家は徳川家から結構頼りにされ、佐幕派に近いスタンスだったと思います。斉彬公も公武合体までは考えていても、まさか倒幕というオプションは全く持っていなかったのではないでしょうか?
斉彬公は将軍後継問題を優位に導くために、13代将軍・徳川家定に篤姫を嫁がせます。どうしても、一橋慶喜に次の将軍になってもらいたかったのですが、紀伊の徳川家茂を推す井伊直弼一派に敗れてしまいます。
そして、その後なんと斉彬公は急死をしてしまいます。これは久光と母親のお由羅らによる毒殺ではないかとの憶測があります。どうも西郷隆盛は最期までそれを信じていたようです。
歴史とは皮肉なのもので、斉彬公が国難を乗り切ることができる逸材として見込んだ慶喜は、いざ将軍となると薩摩藩と折り合いが悪くなり、結果として戊辰戦争が起こり、倒幕ということになってしまいました。
もしか、斉彬公がもっと生きていたら、徳川をトップとする緩やかな雄藩連合による違う形での明治維新を迎えていたかもしれません。
明治維新から150年、桜島は変わらず鹿児島を見守り続けています。