J・A・Mトーク vol.16 ☆  クラシック  ☆ | もりぞーの  たそがれ街角Twilight

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うつうつなのになんとなくさわやかになる~脱力系ゆるトーク

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JAMトーク、今回のお題は
「クラシック」
1996年 シングルカット
1997年 album「THE POWER SOURSE」収録
作詞 Tack and Yukky
作曲 TAKUYA
シングル曲 オリコンチャート3位

TAKUYAが自分のソロ活動の為に書下ろした曲であるが、
YUKIたっての願いでJUDY AND MARYの楽曲
として発表された。
「イロトリドリノセカイ」と同じようにYUKIのおねだり
によってもたらされた名曲である。

つまりこの作品のキモは曲そのものにこそあると言えるだろう。
YUKIが作詞したくなるほど心をうたれた・・ということだ。

ものの解説には「タイトで気持ちのいい8ビートの曲」とあるが実際どうだろうか。

演奏はたしかにどっしりと構えたリズム隊が控えているが、TAKUYA独特のキラキラとしたギターサウンドが光芒を放つ美しい旋律であり、またYUKIのなめらかな美声が乗ると必ずしも「タイトな曲」とは言えないだろう。むしろ一種、ワルツを彷彿とさせる出だしになっており、徐々に切なく性急なサビに向かってよどみなく進行してゆく構成はTAKUYAのメロディーメーカーとしての才能を充分に感じさせる秀逸なものだ。

Aメロを独白部分とスムーズな出だしに分けて使い、聴く者に曲を印象づける手法やサビにおける半音階の上り下りの独特なうねりは、やはりリスナーの感情を激しく揺さぶってゆく素晴らしい作りである。中低音のF♯の出だしからエンディングのオクターブ高いB~D~F♯への超絶高音へもってゆくコード進行は実に自然体であり、かつYUKIの歌も一分のすきもなく美しい。


歌詞については、クレジットの通り共作でありどのように仕上げていったか判然としないが、ベースはTAKUYAの書いたものにYUKIが手を加えていったというのが正味のところではないだろうか。

そもそも、この歌詞は非常にエモーショナルであり、一瞬ひらめいたセンテンスを繋ぎ合わせて創っていったというカンジがする。事実、歌詞に首尾一貫性がなくいわゆる「文章」に置き換えることが全く出来ない。というより完全な「詩」である。簡潔にいえば文章として読み進めていくと「何を言っているのか、何が言いたいのか」さっぱりわからないということだ。

しかし「詩」としてとらえるならばその全体像がなんとなく分かってくる。曲とあいまって非常に純粋でしかも叙情的かつ煽情的な人間の感情が織り込まれていることに気付く。元来、円熟期にあった頃のYUKIの作詞の技法は物質そのものや直情径行的なメッセージはなるべく避け、大自然・・たとえば風景や空や風や花や水や鳥といった・・それは小宇宙と言い換えていいかもしれないが・・ものに自分の感情や心象を投影してみせるといったものだった。で、あるからこそ、野郎共の生み出すごっついバッキングをその特異な歌詞と非凡な歌声によって全てオブラートに包み込んだがゆえのファンタジックなジュディマリサウンドが完成されたと僕は考えるのだ。


世間の相場では、この歌で一番盛り上がるのはやはりサビのところ・・という方々が多いようだが僕は違う。このサビの歌詞は言語としては全く意味をなしていず、わけがわからない。むろん楽曲の美しさ、盛り上がりは別にして、だ。

いま熱いキセキが この胸に吹いたら
ときのながれも みずのながれも止まるから


いとしい人 ふるえる想いをのせて
いつまでも 夢のなかにいて


たとえば国語の授業でこの文章の意味を説け、といわれても絶対に無理だろう。

むしろ簡潔なONEセンテンスのでこの歌がなにを語っているのかがわかる。

雨はすっかり 上がって あの道を
乾かしてく 光だけが 静かに 揺れる  


真綿のような 二人は 夕焼けに
影をつくる 細くなる 小さく泣いてる


約束をしよう きっと ずっと わすれないように
Baby クラシックなBiue 涙があふれちゃう


いかがであろうか。上にあげた三文節があればこの歌の本質が見えてはこないだろうか?

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勝手な解釈をつけてみれば、やはりタイトルの通り「クラシックな涙」がこの歌の最大の焦点である。

クラシックな涙とは何か・・・それは万古普遍の人間が恋する時に抱く感情や遠く懐かしい過去を振り返った時もたらされるもの・・であり悲しい涙ではない、ということ。

夕焼けの中でシルエットになった二人は泣いているがそれは恋愛という不安定な・・ずっと続くかもしれないし、いずれ壊れてしまうかもしれない・・そんな不安と満ち足りた気持ちの間を行きつ戻りつする微妙な心象風景を描いたものであろう。

なぜ悲しい涙ではないとわかるのか?
それは恋愛の成就の嬉しさを、「つらかった雨がすっかり上がって、ひとしきりふりそそぐ陽光が泥濘の道をしずかに乾かしてゆく風景」に、この恋を成就させてれた自然(神様?)への感謝と賛美を投影していることから分かる、とまぁこんなところだろうか。この三つのセンテンスが結論としてさきほどわからんといったサビの「熱いキセキ」という言葉に結びついてゆくことで、この歌が失恋そのものの歌でなく、嬉しさも不安も抱えた「恋」というものの本質を歌い上げていることに気付く。

そして、もうひとつのポイントはこの歌がその風景や想いが既に過ぎ去った季節を懐かしく追憶している今の自分の姿をも歌いこんでいるということ。昔、ある人に恋をした。それは私の人生で一度だけ経験した奇跡であり、いとおしい日々であったと透徹した視点からみずからをを振り返っているところに、また別な「クラシックな涙」が存在する、ということだ。これも決していたずらに嘆いているわけではない。過去の自分と今の自分を同時に表現できているという不思議さにこそ、この歌詞の真骨頂があると思う。

だからこの歌で最高に好きな歌詞の一節は「雨はすっかり・・・」の部分なのだ。彼女の心象風景が鮮やかに心に浮んでくるし、メロディもすばらしい。

ちなみにこの曲についてのウンチクを語ると・・・歌詞のコンセプトについてだが、実は80年代後半のスーパーバンド、REBECCAの4th album「Maybe Tomorrow」に収録されている「CottnTime」という曲の歌詞内容に酷似しているのだ。YUKIがREBECCAにあこがれバンド活動に入ったことはファンの間では有名な話だが、どうも「クラシック」はそのあたりに着想を得て創った歌のような気がする。あえてパクリとは言わないが。
興味のある方は一度、聴き比べてみると面白いかも知れない。

さてさて、とにもかくにも「クラシック」は間違いなくJUDY AND MARYが生んだ傑作であり、この曲からハマった・・という方も多いのではないだろうか。

古今東西、偉大なバンドには必ず一曲、「聖歌」といえるような作品がある。サザンに「いとしのエリー」があるように。レッド・ツェッペリンに「天国への階段」があるように。ビートルズに「レットイットビー」があるように。いささか話しが大げさになったが、この曲の出色の出来映えからしても、人気からしても「クラシック」はジュディマリにとっての「聖歌」といって差し支えないと思うのだがどんなものだろうか。

その流れるようなメロディーとYUKIの美しい歌声は永遠にみずみずしい。