先日,21_21 DESIGN SIGHTで行われている企画展「トランスレーションズ展 ― 『わかりあえなさ』をわかりあおう」に足を運んだ.もともとは言語への興味から参加することを決めたのだが,いざ展示を見てみると言語の範疇を超えた「翻訳」の世界に引き込まれただけでなく,科学コミュニケーションの世界で「何をどのように『伝える』か?」を考え実践している自分にとって大いに活きる知見,体験が得られた.ここでは,(ネタバレにならない程度に)本展覧会について概要を簡単に述べた後に,「翻訳」の観点から科学コミュニケーションの可能性について考えたことをまとめてみたい.

 

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本展覧会は,ドミニク・チェン氏をディレクターとして,数多くの作家が制作した展示を見ることができる.ちょうど今彼の著書「未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために―」を読んでいるところだが,言語・関係性・サイバー・生命といった幅広い専門性が網目のようにつながり,知的好奇心が大いに刺激される内容となっている.ちなみに,私がツイートした「翻訳のカギには「境界認識」と「境界移動」の2つがあるのかな.」というものについては,この本に登場するドゥルーズの「脱領土化」という概念と近いといえるだろう.

 

さて,本展覧会の種々の展示は,「翻訳」という共有点で結ばれている.翻訳というと,例えば英語で書かれた本を日本語にすることを指すのが一般的であるが,ここでは彼の「翻訳はコミュニケーションのデザインである」という考えに基づき,「翻訳」を「互いに異なる背景をもつ『わかりあえない』もの同士が意思疎通を図るためのプロセス」と捉えている.つまり,ここでの「翻訳」は言語に限った話ではない.私の理解では,「『メッセージを伝える』という目的を果たすために,何らかの変化が生じること」が「翻訳」であると考えており,例えば,学校における授業や車のウインカー,ソーシャルディスタンスをとるために床に貼られている足跡など,身の回りの多くのものが「翻訳」の成果であるといえる.本展覧会でも,言語に限らず音・動作・スポーツなど,様々なものが「翻訳」の成果として展示されていた.会場全体として必ずしも統一感があったわけではないが,そこから作家同士の「わかりあえなさ」を伝えるというメタなメッセージがあったのかもしれない.

 

このように,「翻訳」の捉え方が変わるだけでも本展覧会が持つ意義は大きい.それこそ,「『翻訳』というコミュニケーションを通して、他者の思いや異文化の魅力に気づき、その先にひろがる新しい世界を発見する喜びを感じていただける機会」を体現しているといえるだろう.本当なら具体的な展示について紹介したいところであるが,それについては実際に足を運んで体験してみてほしい.

 

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先程,「メッセージを伝えるという目的を果たすために,何らかの変化が生じること」という,私の「翻訳」についての理解を述べたが,これが私の中で科学コミュニケーションと共鳴した.つまり,科学コミュニケーションにおいても,「メッセージを伝える」ために科学を「翻訳」していると考えて良いのではないだろうか.我々がしていることは科学コミュニケーターという括りにされることが多いが,「科学トランスレーター」という括りにしたほうが,活動の内実を上手く表現できているような気もしなくはない.

 

ここで,「科学を『翻訳』する」という観点から科学コミュニケーションを考えてみると,科学コミュニケーションにおける伝え方にいくらかの可能性が見えてくるように思える.例えば,翻訳家が翻訳を行う際に意識する点を,科学コミュニケーターも意識してみたらどうだろうか.ここでは試しに,wikipedia「翻訳」の中の以下の一節を,私なりに科学コミュニケーションの文脈に「翻訳」してみようと思う.

 

起点言語と目標言語の双方、起点言語の側の文化、目標言語側の文化、双方の文化の《ものの考え方》の相違に関する知識、人々の様々な習慣の違いに関する知識...等々 幅広くかつ深い知識が必要となる。つまり、上質な意訳を行うためには、双方の文化を熟知し、双方の文化圏で常識や一般教養と思われていることは、(双方の文化圏での違いを意識しつつ)身につけ、またさらに、雑学的な知識までも(翻訳の段階で辞書で、あわてて調べても、咄嗟に大きな体系を理解できるものではないので)普段から地道にコツコツと蓄積し、体得しておくことによって、ようやく意訳は上達することになる。

(2020年10月24日 16:58閲覧)

 

最初の一文は,科学の知識や考え方と,市民の知識(生活知など)や考え方との双方を知り,そこにどのような違いがあるか理解すること,と「翻訳」できる.vol.11で「サイエンスコミュニケーターは「専門的」であると同時に、「庶民的」でもなければいけない」と述べたが,これと通ずるものがある.科学コミュニケーションを行っている人なら誰もが知っている(と信じたい)「欠如モデル批判」「啓蒙から対話へ」といった言説も,科学を「翻訳」する上で科学だけを理解しているのでは不十分であることとつながる.媒介者としての科学コミュニケーターであるためには欠かせない考え方ではないだろうか.

 

「常識や一般教養」は,市民の立場でいう既有知識素朴概念に「翻訳」できるだろう.これらは教育心理学の分野で説明されているため,詳細はそちらを参考にしてほしい.一例を挙げると,物理の「力と運動」の概念を伝える上では,「物体の運動方向に力が働いている(=MIF)」という素朴概念(誤概念)が存在しており,これが物体の運動の理解を阻害していることが知られている[1].前段落の内容と絡めるならば,既有知識や素朴概念を理解した上で,いかにしてそこに科学的認識観を添えていくか,それが可能となるような伝え方に「翻訳」できるかが肝要といえよう[2].

 

「雑学的な知識」は,事前の情報収集と「翻訳」してみよう.私の持論であるが,同内容の科学イベントが毎回同じメッセージを伝えることはできないと考えている.日本で過ごす子どもに伝える場合と同じ方法で,海外に住んでいる高齢者に伝えたところでメッセージが伝わらないように,同じメッセージを別の相手に伝えるためにはそれが伝わるように方法を少なからず変える必要がある.この「内容のマイナーチェンジ」にあたって効果を発揮するのが,事前の情報収集になると考えている.イベントを行う周囲にはどのようなものがあるか,来場者はどのようなことに興味があるのか,そのような「雑学的な知識」をもとに科学を「翻訳」して,はじめて「伝わる伝え方」になるだろう.

 

このように,「翻訳」を科学コミュニケーションに落とし込むことで,科学コミュニケーションの新たな可能性が見えてくるのではないだろうか.少なくとも,科学コミュニケーション活動を振り返って改善していく上で有益な視点を提供していると考えている.ちょうど先日翻訳に関する本を読み終わったところなので[3],何らかの形で「翻訳」と科学コミュニケーションをつなげた実践を行っていきたい.

 

バットとボールを使っても野球にならないこともあるし,逆にそれらを使わなくても「翻訳」次第で野球をすることができる[4].科学コミュニケーションでそれぞれが何に対応しているか想像に難くないとは思うが,vol.13でも指摘したように,科学コミュニケーション(特に子ども向けのもの)においては容易に「誤訳」が起こりうるだけに,私自身も注意して活動していきたいところである.最後に,「誤訳」が見受けられる現状に向けて発信した,先日の私のツイートを載せて締めとしたい.

 

科学ネタをたくさん持っているだけの科学コミュニケーターは,膨大な英単語を覚えている人に近い.そこから翻訳家になるには,文化や環境,流行,翻訳書の受け手についての知識なども欠かせないはず.翻訳家のあり方を科学コミュニケーションに「翻訳」しないと,容易に「誤訳」が起こりうる.

 

 

参考文献など

[1] Clement, J. American Journal of Physics 1982, 50, 66., Osborne, R.; Freyberg, P. (1985). "Learning in Science. The Implications of Children's Science."

 

[2] 「力 素朴概念」で調べたら22,700件ほどヒットした.一人であれこれ考えるより,先行研究を参考にしてみるのがいいだろう.

https://scholar.google.com/scholar?hl=ja&lr=&as_sdt=0%2C5&q=%E5%8A%9B%E3%80%80%E7%B4%A0%E6%9C%B4%E6%A6%82%E5%BF%B5&btnG=

 

[3] 加藤周一・丸山眞男 (1998). 『翻訳と日本の近代』 (岩波新書)

 

[4] 見えないスポーツ図鑑のホームページより.書籍にもなっている.

https://mienaisports.com/