ここ最近、科学イベントに向けてのコンテンツ作成を毎日のように行っている。直近では11月16,17日に行われたサイエンスアゴラ、22~24日に行われた駒場祭と2週続けて、UTaTanéとして出展した「アイデアを”つくる”」という企画をメインで製作していた。また、来年3月には複数の科学イベントを実施予定であり、そのための準備も進めている。その過程で、サイエンスコミュニケーションに対する考え方が、vol.10の頃(今年の4月)から徐々に変わりつつある。最近になってやっと考えが徐々にまとまりはじめたので、メモ兼備忘録としてサイエンスコミュニケーションの素人(それも本当に限られた範囲のサイエンスコミュニケーションしか分かっていないド素人)ながらまとめておきたい。

 

①サイエンスコミュニケーションの課題から

日本におけるサイエンスコミュニケーションの課題は何だろうか?

 

様々な答えがあると思うが、岸田一隆は『科学コミュニケーション』(平凡社新書)にてこのように述べている。

 

――日本における科学コミュニケーションを考える時、無関心層といかに共感し、価値観をともにしてゆくかが重要な鍵となると考えて、おそらく大きな間違いはないでしょう。日本の科学は無関心の海に溺れているのです。(pp.37-38)

 

すなわち、日本におけるサイエンスコミュニケーションの課題は、無関心層に対して(好き嫌いは別として少なくとも)科学に関心を持ってもらえるようにすることであると述べている。もちろんこれが全てではないということは押さえておく必要があるが、多くの団体において定義しているサイエンスコミュニケーションの文面の中に「興味」「意欲」などといった言葉が含まれていることからもある程度真っ当であると言えよう(渡辺, 2012など)。とすると、次に考えるべきはどのようにしてそれを達成するかである。

 

科学イベントを多数開催するのはその1つであろう。しかし、科学イベントの持つ訴求効果は科学に興味のある層にとどまっている――そういった話を先日のサイエンスアゴラで企画関係者と議論した。そもそも科学に興味がない層はこのようなイベントにまず来ない。来なかったら当然私たちは何も伝えることはできない。これでは、科学に興味がない層に対して何もアプローチできていない。では、どうしたら科学に興味のない層を巻き込めるのだろうか。

 

科学に興味がない層に対して、真っ向から科学を伝えようとするのは得策ではないと私は考えている。特に、「科学は面白い」ということをあたかも当たり前かのように全面に押し出すのはふさわしくないだろう。先の岸田は同著で以下のようにも述べている。

 

――出発点が「科学がおもしろい」では、共感・共有のコミュニケーションとしての成功はおぼつかないと思います。(p.42)

 

ここまでの文脈で、岸田は日本におけるサイエンスコミュニケーションの課題は「無関心」であり、無関心層に対しては感情や価値観といった言葉以外の部分=共感・共有が必要であると述べている。このことについては私自身の過去の実践からも分かることである。いくらこちらが丁寧に説明したところで、最初から聞く気のない人にはまったくもって届かない。「私には関係ない、興味がない」といった感想が小学生からも出てきたのが現状である。

 

科学は、多数のデータから一般性や普遍性を求める方向に進むもうとする、ある種の”宗教”である。その過程においては、1つ1つのデータの持つ個別性具体性は失われてしまうことが多い。しかし、科学の世界の外では個別具体的内容の方が興味関心が高いだろう。例えば、「この地域は10年以内に80%の確率で津波による浸水被害を受ける」ことよりも、「我が家が浸水するかどうか」の方が重要だと考える次第である。そうすると、個別具体的なところを出発点として一般普遍的なところまでの道程を示すといった伝え方が考えられる。つまり、スタート地点は相手方にあるということである。これは欠如モデルから対話モデルへと移行していったサイエンスコミュニケーションの歴史からしても適切であろう(小林, 2007)。そこで私が着目しているのが「日常生活」であるし、これはUTaTanéの活動方針にも合致している(正確には教育心理学的知見から日常生活を題材にし始め、そこに裏付けがなされたといったところであるが)。

 

少々脱線するが、UTaTanéの活動方針はサイエンスアゴラにおいてかなり好感を持っていただけたと思っている。科学や技術についての知見を一方的に伝えていくことが主軸となっていた(少なくともそうなっているように感じた)イベントにおいて少々異質だったこともあるかもしれないが、「それが大切だ」「ちょうど問題意識を持っていた」といった声が多く伺えたことは間違いない。

 

話を戻そう。となると、日常生活から始めてどのような科学のスキル(知識、理解、意見形成、判断、…)を身につけられるようにするか考える必要がある。現状、科学のスキルを身につける公的な場として働いているのは学校であろう。その学校で、少なくとも日本において主軸に据えられているのは、「知識を身につける」ことにあると考えられる。イギリスのGCSEに見られる「サイエンス」といった(笠, 2013)、科学が単独で占める科目は現時点では存在せず、様々な科目に分散して存在している。

 

このこと自体の是非はそれはそれで検討する必要があるが、ここではそのような現状に対してどうアプローチをしたらいいかについて考えよう。アプローチ方法としては以下の2つが例として挙げられよう。

 

①学校で手に入れた大量の知識と関連付けて新たな知を提供する

②知識以外のスキル(情報収集、批判的思考、…)を身につける

 

学校でやったこと以外の付加価値を提供するという点を意識して考えると、「知識を活用する」方向と「知識以外に触れる」方向に分かれていく。そして、(少なくとも私が知る狭い範囲の)現状のサイエンスコミュニケーションを見ると、おおよそこの2つに落ち着くだろう。(サイエンスコミュニケーションの類型に基づいて考察するのがベターではあるが、類型化できるほどの実力を持ち合わせていないためここではこの程度に留めておく)

 

どちらも大切だし、やる意味はあると考えているが、私自身は②を重視して活動を行っている。なぜ私が②を重視して行っているかは、後に明らかになるのでそちらに譲ろう。

 

ここまでの話をまとめておくと、「科学への無関心が課題である日本において、日常生活を題材に科学の知識伝授にとどまらないイベントが必要である」というのが、サイエンスコミュニケーションの課題から導かれた私の考えである。

 

②サイエンスコミュニケーターの現状から

サイエンスコミュニケーション活動が活発になったおかげで、様々な方法でサイエンスコミュニケーションが行われている現代。それらを見ているとある1つのベクトルを感じ取れる領域として「科学のエンタメ化」が挙げられる。つまり、「科学は楽しい」「科学は面白い」と分かってもらうことを目的として、時にストーリーショーも交えながら楽しく見せているようなものである。

 

私自身、サイエンスコミュニケーションを始めた当初はこれでいいと思っていた。しかし、様々な経験を積む中でこれ”だけ”ではいけないと思うようになってきた。

 

そこで伝えていることは、「科学」の楽しさ・面白さなのだろうか?

 

(前に「科学は面白いという前提で行うのは好ましくない」といった趣旨の内容を述べたが、これは伝える側がいわば「科学は面白い教」を布教することが好ましくないという意味であり、伝わる側が「科学は面白い」と思うこと自体については問題にしていない。一応補足しておく。)

 

例えば、ショーの後の感想として「サンタの格好をしているのが楽しかった!」と書かれたとしたら、ここに科学はほとんど無い。「色が赤くなったのがすごかった!」と書かれると、一見科学を学んだかのように見えるが、これは現象をそのまま語っているだけであり、その先に続いている科学については「すごい」の一言で済んでいる。十分とは言えないだろう。

 

私自身は決して「科学のエンタメ化」を全否定しているわけではない。手段として用いるのであれば有効だと考えているし、実際エンタメの要素を取り入れた実践を行っている。vol.10を見れば分かると思うが、駅をテーマとしたときに駅員風のコスプレをしているのはその典型であろう。しかし、それが目的化して科学が失われる、ないしは科学が歪むような事態になってしまうのは好ましくないと考えている。特に、エンタメを志向する方々に多いのが、「楽しいと思ってもらえると理科離れが是正される」という主張であるが、それで楽しませることだけに注力してしまっては対症療法にすぎず、長期的に見たら実際の科学の営みとのギャップによってむしろ理科離れが助長されるのではないかと危惧している。

 

こんなことを言ってしまっては元も子もないかもしれないが、現実問題、科学はつらくて難しい側面もあるものだと考えている。というのも、科学の世界では主観がとことん排除され、高度に客観化された空間が広がっている。このような場では、私たちは客観化された人間になりきる必要がある。違うと思う自分を押し殺す場面も出てくるかもしれない。これが楽しい営みかといわれると、必ずしも万人に当てはまるものではなさそうだ(他の世界も然り)。先の言葉を用いると、我が家が浸水するかどうかを差し置いてでも将来の地域の浸水確率のことを考えなければならない。このあたりは、先に科学を”宗教”と表現したことともつながってくるだろう。結局はある方向に向かって進むものを信じるかどうかにかかっているのである。しかし、これこそが科学を特徴づけ、科学の進歩の原動力となった要素であるから(野家, 2015)、この部分をサイエンスコミュニケーションにおいて完全に切り捨ててしまうのは好ましいとは思えない。

 

ただし、繰り返しになるが私自身は決して「科学のエンタメ化」を全否定しているわけではない。伝えようとしている内容によっては楽しさや面白さも必要であるし、外発的動機づけとしては効果的であろう(藤田, 2007)。ただ、それだけになってしまってはいけない、というスタンスであることだけは改めて強調しておこう。

 

では、「科学」の面白さや楽しさを担保しつつ、「科学」を”きちんと”伝えるにはどうしたらいいだろうか?

 

先人の知恵を借りよう。2019年、吉野彰先生がノーベル化学賞を受賞した。受賞にともなって、先生が幼少期に読んでいたとされるマイケル・ファラデー『ロウソクの科学』が書店で大々的に売られるようになった。このロウソクの科学は、ファラデーが実際に子ども相手に行った講演の内容を書籍化したものであり、今なお世界中で愛読され続けている名著である。実験や解説の分かりやすさと奥深さが名著たらしめる要因だと思われるが、私がこの本を読んで最も感動した点は、科学に対する考え方や向き合い方を合間合間に挟んでいた点である。例えば、第1講では以下のようなことが述べられている。

 

――何か結果が得られたとき、とくに新しい結果が得られたときには、皆さんが必ず、

「何が原因なのだろう?」

「なぜ起こったのだろう?」

と問い続け、最後にその理由を明らかにしてほしい、と私は願っています。(岩波文庫版, p.33)

 

このように、疑問を持つことは科学において重要な要素であろう。これを適切な実験と語りかけ、投げかけの合間合間に入れられると、自然とこのことを意識してものを見るようになってしまう。

 

もう1つ取り上げよう。今話題となっている塾に「探究学舎」というものがある。ここでは、受験も勉強も教えず、専ら子どもの探究心に火を付けることを目的としている。ホームページに過去の実施例があがっているが、これを見ると過度なエンターテインメントに偏っていないにも関わらず、子どもたちがのめり込んでいることが見て取れるだろう。探究学舎の代表である宝槻泰伸は以下のように述べている。

 

――子どもたちの探究心を爆発させるきっかけは、“驚きと感動”なんです。自然の神秘と人類が積み重ねてきた英知。その壮大なストーリーの奥深さに触れ、『すげえ!!』と感動したら、子どもは勝手に学び出す。(https://www.businessinsider.jp/post-201870 より)

 

宝槻が著者である『探究学舎のスゴイ授業 元素編』(方丈社)には、探究学舎で行っている元素編の授業がリアルに描かれているが、実験自体が全て有機的につながっていて、さらに偉人がたくさん出てくることが特徴的である。歴史というストーリーの持つパワーを実感した次第である。

 

これらから考えると、エンタメというクリームを塗らずとも、科学そのものの持つストーリー、科学に対する姿勢をそのまま伝えていけば、楽しさ・面白さは伝わる、それも「科学」の楽しさ・面白さが伝わるということが見えてくる。実際、今年4月に私が行った白猫ラボにおいて、「駅」をテーマに切符の歴史をたどる実験教室や、「なぜ科学が必要なのか?」といった話を行ったが(これについてはvol.10で軽く言及している)、前者で「いろいろなことはつながっているんだ」という感想が自発的に挙がったり、後者で自発的にメモを取る姿がうかがえたりしたことも、「科学の楽しさ・面白さ」が伝わったことと関係しているようにも思える。そうであるにもかかわらず、一部のサイエンスコミュニケーションが表面的・一時的なエンタメ消費に終始してしまっているのはどうしてなのだろうか? (念のため補足しておくと、そのような活動を行っていること自体を問題視しているというよりは、「表面的・一時的なエンタメ消費」にすぎない状態で科学が伝わるのか、またそれで科学が伝わっていることを検証しているのかということを問うている。「科学が伝わるエンタメ消費」があればむしろ見に行ってたくさん学びたい。)

 

私がここで問題提起したいことは、「サイエンスコミュニケーター自身がどの程度科学を理解しているのか?」という点である。

 

やりたいこと・できること・すべきことのバランスを取れ――これは私自身が常に問い直し続けていることであり、他の人にアドバイスをする際に高頻度で持ち出していることである。サイエンスコミュニケーターの卵状態では「やりたいこと」と「できること」が強く、「すべきこと」が見え切っていない。そして、ある程度経験を積むと今度は「やりたいこと」と「すべきこと」の調和がなされていくが、それに「できること」が追い付いていないような状況に陥ることが多いのではないだろうか。しかも、この「できること」が追い付いていない状況、とりわけ「自分の持っている知識や経験が目標に対して不足している状況」は、案外無意識であることが多い。私もそうであるが、「すべきこと」と「やりたいこと」が結びついたことで行動が先行してしまい、自分に「できること」を落ち着いて捉えることを忘れてしまっているような場合がしばしばある。教育心理学を初めて大々的に用いて行った「白い粉」テーマの実験教室は、教育心理学をサイエンスコミュニケーションに取り入れるだけの実力がなかった、双方についての深い分析がなされていなかった、そうした「できなさ=科学理解の甘さ」の無自覚によるものではないかと考えている。そして、これは私に限った話でもないように思える。

 

「科学の不思議を~」という言説をよく耳にする。しかし、これは考えてみるとよく分からない。この文脈で行われることは、直感と必ずしも一致しない派手めな”実験”である。しかし、そこで起こった「不思議」とは現象の不思議にすぎない。むしろその不思議を解明するための一手段として科学が存在しているのではないだろうか。

 

そもそも、科学はどこにあるのだろうか?

 

「科学の不思議を~」と言う人は、もしかしたら対象物や現象の中に科学があると考えているのかもしれない。しかし、結局は人間がそれをどう捉えて解釈するかがカギであり、科学はこの部分に存在するものであると私は考えている。中谷宇吉郎は『科学の方法』(岩波新書)で以下のように述べている。

 

――人間をはなれて存在している自然の中から、いろいろな法則を引き出したり、実態を見きわめたりするものは人間なのであるから、われわれが現在もっている自然像は、人間を離れては存在しないものである。(p.176)

 

すなわち、中谷の言葉を借りれば、人間が『科学の眼を通じて見た自然の実態(同著, p.19)』が見えているにすぎない。これは人間の動的な営みであるから、「~の科学」ではなく「~を科学する」、「科学の不思議を~」というより「~の不思議を科学する」といったように、科学を動詞的に使うほうがふさわしいのかもしれない。今まで私が「~の科学」といった表現に抱いていたモヤモヤ感やしっくりこなさが、この本によって晴れていった気がする。


”実験”と強調したのにも理由がある。先の中谷は同著で実験について以下のように述べている。

 

――他の条件をなるべく一定にして、ある現象を起こさせてみる。それが実験なのである。(p.143)

 

条件を一定にして、という時点で実験は異なる現象間の比較によって行われることが分かる。しかし、例えば空気砲を撃つような”実験”において、条件が意識されている例はあまり多くない(もちろん穴の形を変えてみるといったことは行われているが)。巨大な風船を触って空気に重さがあることを確認する”実験”で、同時に小さな風船を触ること、さらに風船の種類の違いにまで踏み込んでいる例は今まで見たことがない。つまり、サイエンスコミュニケーションの文脈で行われている”実験”は、科学における実験と少なからず意味が異なっていることが分かる。私自身、実験という言葉の使い方にはかなり気を配っているつもりで、科学における実験でない場合は「見てみましょう/やってみましょう」と言うようにしている。

 

サイエンスコミュニケーターの科学理解というと、先日青少年のための科学の祭典東京大会in小金井を訪れたときに感じたことを思い出す。これらの科学イベントを見てみると、数学や理科の枠にとどまっている企画が多い(もちろん環境などのいわゆる「トランスサイエンス」の問題に踏み込んでいる展示があることは承知の上である)。しかし、人文科学・社会科学・自然科学とあるように、(方法や性質に差があるとはいえ)科学は理科や数学だけのものではない。私は過去にスーパーマーケットにおける価格変動のメカニズムを扱ったことがあるが、これもれっきとした科学である。このような現状を見てみると、科学=理数科目という考え方に基づいてサイエンスコミュニケーションを行っている人が多くいる可能性が示唆されるだろう。科学が縮小解釈されているわけである(ただ、理科の教科書に科学という名前がついている(参考:東京書籍のホームページ)ことから、この考えについては多少再考の余地があるのかもしれない)。少なくともサイエンスコミュニケーションの文脈において、人文・社会系の科学の存在を理解した上で自然科学をメインにするのと、それを理解せずに自然科学を推すのとでは大きな差があるのではないかとは思っている。

 

しかし、日本においてこのような状況になっているのも仕方ない面がある。野家啓一は『科学哲学への招待』(ちくま学芸文庫)で以下のように述べている。

 

――ヨーロッパでは、科学はもともと「自然哲学」を母胎として生まれた知識であり、(中略)それは宗教的迷妄に対峙する啓蒙主義的な世界観と密接に結びついていた。しかし、日本では、科学は技術と結びついた実用的な知識として、つまり世界観や自然観としてよりは、むしろ個別分野の専門的知識として、その技術的応用の側面に力点を置いて受容されたのである。(p.27)

 

端的に言えば、「どう捉え、考えるか」から生まれた科学が「どう使うか」という形に変容し、技術とパッケージ化されて日本に受け入れられたということになる。そうすると、使いどころが即時的に受け取られやすい傾向にある自然科学が台頭してしまうのは想定内の帰結だろう。サイエンスコミュニケーションにおいて「この現象がどう使われているか」を紹介することが多くみられることの元には、この変容されたイデオロギーが潜んでいるのかもしれない。

 

ただ、これでいいのだろうか。科学を”きちんと”理解し伝えるためには、自然哲学のレベルから歴史を振り返り、「どう捉え、考えるか」の変遷を押さえておく必要があると考える(この時点で自然科学を伝える上でも人文・社会科学が必要になってしまう)。「『どう捉え、考えるか』の変遷」というと、先に「科学そのものの持つストーリー、科学に対する姿勢」という似たワードがあったのを思い出す。さらには、伏線をはっておいた「知識以外のスキル」も絡められそうだ。

 

ここまでの話をまとめておくと、「エンタメを必要に応じて手段として利用しつつも、サイエンスコミュニケーター自身が科学そのものを深く理解した上で活動を行う必要がある」というのが、サイエンスコミュニケーターの現状から導かれた私の考えである。

 

③私の活動指針について

ここで、私の現在の活動の指針をまとめておこう。

 

科学という”メガネ”で、日常生活を”学び”の場に

~世界は大きな科学館~

 

私は「見方・考え方(方法論)としての科学」を伝える/伝わるようにデザインすることを大切にしている。これは重要な要素であるにもかかわらず、現状あまり考慮されていないということは、これまでの議論で述べた通りである。また、方法論が身についてしまいさえすれば、知識を得ることはたやすい。これも私が方法論を推す理由の一つである。そして、題材として身近なモノや現象、状況などを取り上げるなど、この「見方・考え方(方法論)としての科学」を伝えるための入り口を日常生活に置くことで、無関心に対してのアプローチを狙っているだけでなく、科学イベントに参加せずとも毎日の生活が科学イベントに変容し、一朝一夕では身につかない方法論が反復を通じて自然と習得されることを目論んでいる。さらに、「科学がどう生まれ、どう発展していって今があるのか」「科学はどう考えて、それによって何が生み出されたのか」というメタ的・客観的要素も取り入れ、そこにあるダイナミックな営みに惹きつけられるような工夫も加えている。これらのことを経て、最終的にイベント前とイベント後とで世界の見方が変わっているようにすることを目指している。私が授業を受けている滝川洋二先生は以前、「科学の面白さは自分の考え方が変わること」と仰ったが、この言葉を借りると「科学の面白さは”自分の見える世界”が変わること」とでも言えよう。

 

先日のサイエンスアゴラにて行われた良縁創出企画『お台場100人論文』に、上記の考えをまとめたものを投稿させていただいた。嬉しいことに様々な方から共感の声が寄せられ、またさらなる発展への道筋を示した意見など多くのコメントが集まった。ここでは、そこに投稿した内容を書いておこう。

 

(1)私の研究・関心事はこんな感じです

現在、子どもを対象にした科学イベントが広く行われており、特にエンターテインメントと科学を融合させた“楽しい”サイエンスショーが話題となっています。しかし、そこで伝えている科学とはどのようなものなのでしょうか。楽しさと科学の連関が十分に議論されないまま、いわゆる“理系科目の知識”に基づく実演を単なるエンタメ消費のための道具として使っている場合も少なくありません。
そこで、私はこのようなイベントの持つ楽しませるためのノウハウを取り入れつつも、広く人文・社会・自然科学のものの見方や考え方が身につき、終了後「世界が大きな科学館」に見えるような新しい科学イベントの企画立案及び実践を行いたいと考えています。

 

(2)こんなコラボができたらうれしい!

楽しませる経験が薄いため、このことに主眼を置いて活動を行っている方とコラボしたいです。また、既に科学イベントのパッケージがある方や、これからパッケージを作りたいという方も、お互い良い刺激になると考えています。企業や学生も大歓迎です。

 

(3)私、こんなことができます

教育心理学的手法を用いて、「日常生活を学びの場にする」ことを目指した子ども向け実験教室の実施経験があり、過去には実際のお菓子をもとに売れるパッケージを作る心理学・経済学の実験教室や、切符の歴史や技術を題材とした実験教室を行ってきました。

 

投稿してみたところ、思いの外共感の声やコラボ希望の声が多く上がり、私としても喜ばしい限りである。私が興味を持った方には歩み寄ってみたので、今後どうなっていくか楽しみである。

 

ただ、これを達成するうえでは、私自身が”見える世界”を変えていかなければならない。人間は見ようと思っていることしか見ることができない。だからこそ、私自身が学び続けることが必要である。今年の夏に受けた理科教育法の講義で模擬授業を行ったが、そこで「100を知っていて初めて1のことを準備でき、その中でも教えられるのは0.1程度で、最終的に伝わるのは0.01程度」だということを実感した。また、vol.10でも書いたことだが、学び続ける姿勢はイベントの中で無意識のうちににじみ出てくるものだと思っている。逆に、私たちが何も調べずして「分からなかったら調べてみて」と言っても、参加者はおそらく調べてはくれないだろう。

 

冒頭で来年3月にいくつかイベントを行うと述べたが、そのうちの1つは化学をテーマにしたサイエンスショーである。もちろん上述の活動指針に則っている。今もそのための準備を進めているが、真っ先に行ったのは「化学の勉強をすること」であった。理学部化学科に所属しているにもかかわらず、である。その時に用いた書籍は、アイザック・アシモフ『化学の歴史』(ちくま学芸文庫)ピーター・アトキンス『化学』(サイエンス・パレット)である。講義でも化学は学んでいるが、これらの本で言及されている化学の内容は講義とは一味違っており、化学の本質にかかわる部分が大きく、化学の見方を伝える上で大いに参考になった。また、科学そのものについても学んでおかなければならないと考え、すでに何回か登場している野家啓一『科学哲学への招待』(ちくま学芸文庫)中谷宇吉郎『科学の方法』(岩波新書)も読んだ。この他にも、1本のサイエンスショーを作り上げるのに参考にした書籍・文献は、これまでに出てきたものも含め軽く15を超える。それでもまだまだ分からないことだらけである。というか、自分は分かっていると思いこんだ瞬間に成長は止まってしまうだろう。

 

上記の学びはいわば言語的な学びと言えよう。これに加えて非言語的な学び=体験知も必要である。先日行った「あそんでいたら、まなんでいた展」などのイベントに足を運ぶだけでなく、公園に出かけて子どもたちの様子を(怪しまれない程度に)観察したり、家電量販店のおもちゃコーナーに行ってマーケットリサーチをしたりなど、ターゲットとしている層について身をもって学ぶ経験も絶えず行うように心がけている。サイエンスコミュニケーターは「専門的」であると同時に、「庶民的」でもなければいけない――それが私のモットーの1つである。

 

いくら色々なことを考えて発信していても、それが形となって成果が出なければ意味がない。とりあえずはここまで述べたことを現実のものにしていくことに注力していきたいと思う。そして、そこから検証・改善を進め、より良いものを作り上げていきたい。

 

 

――そんなことを考える2019年の年の瀬であった。

 

それでは、良いお年を。

 

 

参考文献

岸田一隆 2011: 『科学コミュニケーション』(平凡社新書)

渡辺政隆 2012: 『サイエンスコミュニケーション2.0へ』 サイエンスコミュニケーション 1(1), 6-11.

小林傳司 2007: 『科学技術とサイエンスコミュニケーション』 科学教育研究 31(4), 310-318.

笠潤平 2013: 『原子力と理科教育』(岩波ブックレット)

野家啓一 2015: 『科学哲学への招待』(ちくま学芸文庫)

藤田哲也 2007: 『絶対役立つ教育心理学』(ミネルヴァ書房)

マイケル・ファラデー 2010: 『ロウソクの科学』(岩波文庫)

宝槻泰伸 2018: 『探究学舎のスゴイ授業 元素編』(方丈社)

中谷宇吉郎 1958: 『科学の方法』(岩波新書)

アイザック・アシモフ 2010: 『化学の歴史』(ちくま学芸文庫)

ピーター・アトキンス 2014: 『化学』(サイエンス・パレット)