子ども向け科学コミュニケーションにおける「再生産」については,「悪循環」という単語を代わりに用いた上でvol.12において軽く触れている.その頃はまだぼんやりとしていた「再生産」だが,今年度前期に教育社会学の講義を履修したり,(教育)社会学に関する本[1]を読んだりする中で,少しずつ現状の分析ができてきたように思える.文献に基づく調査までは至っていない不完全なものであることは承知だが,一叩き台として考えをまとめておきたい.

 

--

 

今年は新型コロナウイルスの影響で従来通りの実施ができなくなっているが,科学の祭典,大学のサークル活動や学園祭,あるいはYouTubeなどで,子どもをターゲットにした科学コミュニケーション(サイエンスショー,実験教室,工作,...)が広く行われている.また,そのような活動は年々活性化されているように思える.このこと自体は好ましいものであると考えているが,その内実を見てみると必ずしも好ましいものであるとは断言できないように思えてきた.

 

どうも私には,そういった活動が「内輪で盛り上がっている」ように映ってしまう.

 

 

以下では,私の目に映った子ども向け科学コミュニケーションの現状について,

 

①需要と供給の一致と”科学好き”集団の形成

②”科学好き”集団の”閉じた世界化”と科学の意味の再定義

③”閉じた世界化”した”科学好き”集団の再生産・再確認

 

の3つの観点から考察していこうと思う.

 

 

①需要と供給の一致と”科学好き”集団の形成

 

子ども向け科学コミュニケーションにおいては,科学コミュニケーターと子どもという2つの役回りがある.そして,基本的には科学コミュニケーターが供給側に,子どもが需要側に回る.立場的には,科学コミュニケーターが「先生」で,子どもが「生徒」になっているといえよう.この需要と供給の関係性において,それらが一致している部分で”科学好き”集団が形成されているのではないか,というのが1点目のキモである.

 

例えば,教育においては水平的画一化(=振る舞いや価値観の面で均質な生徒を育成する)の力学が働いていることが指摘されており[2],これによって生徒の能動性や自己表現が阻害されている可能性があると考えられる.一方で,科学コミュニケーターの中には「体験が科学への興味を生む」という論理に基づいて,体験することそれ自体を目的として活動を行っている場合が見受けられる.すると,体験してもらえさえすればあとは自由にやればいいという科学コミュニケーターの方針と,学校という窮屈な場から能動性や自己表現が解放される場を求める子どもの願望とが共鳴し,それらの間に強固な結びつき,すなわち”科学好き”集団が形成される.

 

同様の関係性は他にも指摘できる.科学コミュニケーターの中には,科学の成果としての知識を欠如モデル的に分かりやすく伝えることを目指している場合がよく見られる.これはIshihara-Shineha(2017)でも指摘されており,参加・対話型の活動に比べて欠如モデルに基づく活動の割合が多いことが示されている[3].さらに,そこでの知識は15分程度といった短時間で特段つながりのない3トピックを扱うといったように,大量かつ断片的に提示されることが多い.一方で,(テストによる弊害かもしれないが)子どもにおいては知識が断片的であっても構わず,答えを出すための道具として表面的な知識を持っていることで満足している場合も少なくない.このことはvol.12の終わりに触れたが,私が以前実施したイベントからも伺えた傾向でもある.このような関係性においては,科学コミュニケーターが子どもに大量かつ断片的な知識を教授することが正当化されるがゆえに,同様に”科学好き”集団が形成されることにつながるだろう.

 

なお,需要が先か供給が先かという点が気になるが,私は科学コミュニケーターによる供給が先行すると考えている.科学コミュニケーターがいないと活動そのものが生まれないこと,vol.12で指摘した「科学コミュニケーターの科学の専門性の向上」がやはり課題として挙げられることが主な理由である.

 

 

②”科学好き”集団の”閉じた世界化”と科学の意味の再定義

 

先に述べた”科学好き”集団の形成は,同時に”科学好き”集団に合わない人を集団外に押しやる力学を含んでいる.そしてそれは,”科学好き”集団が社会から析出することにつながる.つまり,社会の中にありながらも外部との界面を持つ,”閉じた世界化”した”科学好き”集団を形成することになる.さらに,種々の科学イベントによって,あたかも結晶が大きくなっていくかのように集団が拡大していくことにもつながっていくだろう.加納らによると,科学や技術に関わるイベントの参加者は科学への高関心層がメジャーであり,全体の半数程度いるはずの科学・技術への低関心層はあまり参加していない場合が多いことが示されている[4].種々の科学イベントが科学への高関心層を囲い込み,”閉じた世界化”した”科学好き”集団が集うイベントと化している,さらに”閉じた世界化”した”科学好き”集団の拡大に一役買っている可能性が考えられる.

 

さて,”閉じた世界化”した”科学好き”集団は,いわば均質化した無菌空間である.つまり,同様の嗜好を持った共感し合える人だけが集まっており,その輪を乱す存在は基本的にいない(そのような人はむしろ,”科学好き”集団に合わない人として集団外に押しやられる).宮台真司が定義する『島宇宙化』のような現象が生じているといえよう.このような空間においては,科学の持つ自己浄化作用が機能不全に陥ることで”科学”が本来の意味としての科学から変容し,内部での需要と供給に基づいて”科学好き”集団としての”科学”が再定義される.以前に格式のない理科交流会に参加した際に話題となった,空気砲を撃つこと自体は科学でないという主張も,”科学好き”集団内部で”科学”が再定義され,科学の意味が変容してしまった帰結と考えれば納得できるだろう.”科学好き”集団にとって,空気砲を撃つことはれっきとした”科学”として考えられているのである.

 

 

③”閉じた世界化”した”科学好き”集団の再生産・再確認

 

これまでに,科学コミュニケーターと子どもとの間にある需要と供給が一致することで強固かつ閉鎖的な”科学好き”集団を生み,その中で科学の意味が変容していくことを述べてきた.このような集団が生まれた際の帰結として,その子どもが科学コミュニケーターの立場になったときに同様の集団を形成することが挙げられる.”閉じた世界化”した”科学好き”集団の中で意味が変容した”科学”を嗜んできた子どもは,あたかもそれが科学の本来の姿であると錯覚し,自分が科学コミュニケーターの立場になったときに同様のことを行う可能性が高いといえるだろう.これは,自分の価値観が特定の文脈に埋め込まれていることを考えると致し方ない.すると,自らが再び”閉じた世界化”した”科学好き”集団の存続に寄与することとなり,必然的に次世代の”閉じた世界化”した”科学好き”集団の存続を担う子どもを育成することにつながってしまう.すなわち,”閉じた世界化”した”科学好き”集団が再生産されることとなる.

 

再生産されることと自体は,科学者集団内部でも行われていることであるため何ら問題ではない.問題なのはvol.12でも述べた通り,”科学好き”集団内部で形成された,意味の変容した”科学”を再生産する点にある(これこそ「悪循環」と表現した所以である).科学コミュニケーターは科学という肩書を持って活動している.にもかかわらず科学を扱わない,あるいは自らが行っている活動が科学であるかどうかの検討を行わないのは大きな問題ではないだろうか.

 

さて,今まで科学コミュニケーターと子どもとの間の関係性について述べてきたが,科学コミュニケーター間の関係性についても似たような状況が考えられる.今まで科学コミュニケーションに関わる様々な実践の場に足を運んだり,議論の場に顔を出したりしてきたが,多くの場面において共通して感じたのは,内輪で科学の成果を嗜むことや,自分たちの外の世界に原因を帰属することに終始しているのではないかということである.例えば,実践の場において他団体の企画を面白いと評価することはあっても,方法論や目的論を吟味したり,発問の意図と改善案を議論したりするようなことはあまり見受けられないように思える.また,科学コミュニケーションの課題について議論しているのに,何かの拍子で学問的な話題になると途端にそっちの方向で議論が白熱し始めるような場合も何度か経験してきた.あるいは,同様の議論で課題の原因帰属を一般市民側にすることで終わりにしてしまっていることも何度かあった(もちろん一般市民側にも課題はあるが,それを認めた上でどのような手を打てばいいか考え実行するのが科学コミュニケーションではないだろうか.「科学技術コミュニティーの『社会リテラシー』」(小林 2007)[5]が求められる.).これも今までと同様の構造を持っていると考える.すなわち,科学の成果や演示・実演といった”面白さ”を共有・共感できる人たちが強固に結びつき,そこで生まれた”閉じた世界”の内部で”科学”の”面白さ”を再確認する構図になっている.個人的な意見としては,再確認は内部で行っている分には自由にすればいいと考えているし,そこからより良い実践が生まれるのであればむしろ肯定的であるが,子どもに対して何らかの働きかけを行う場合は,先述した再生産につながりうるので再確認を避けたほうが良いと考えている(科学コミュニケーターと子どもとの間で行われる再確認は,”閉じた世界化”した”科学好き”集団内の結合をより強固にしていくのではないだろうか).

 

--

 

これまで,子ども向け科学コミュニケーションの現状を3つの観点から考察してきた.ただ,これらを踏まえてどうしたらこの状況を打破できるのかについてまで考え,行動に移すことが必要であると考えている.私自身科学コミュニケーター側の「自己相対化」「解像度の向上」「トップダウン式の企画構成」がカギであると考えており,主にUTaTanéの実践で意識して取り組んでいるところだが,この話はまた別の機会にでもまとめようと思う.

 

 

 

参考文献

 

[1] 見田宗介 1996: 『現代社会の理論』(岩波新書),菅野仁 2010: 『教育幻想』(ちくまプリマー新書),中村高康 2018: 『暴走する能力主義』(ちくま新書)など

 

[2] 本田由紀 2020: 『教育は何を評価してきたのか』(岩波新書)

 

[3] Ishihara-Shineha, S. Persistence of the Deficit Model in Japan's Science Communication: Analysis of White Papers on Science and Technology. East Asian Science, Technology and Society 2017, 11, 305-329.

 

[4] 加納圭ら. サイエンスカフェ参加者のセグメンテーションとターゲティング : 「科学・技術への関与」という観点から. 科学技術コミュニケーション 2013, 13, 3-16.

 

[5] 小林傳司. 科学技術とサイエンスコミュニケーション. 科学教育研究 2007, 31, 310-318.