このブログのタイトルは,私がこの半年間をかけて制作したショーのタイトルである.昨今の新型コロナウイルス感染症の影響で諸々のイベントが中止されるなか,個人的な依頼を受けて3月某日にこのショーをやらせてもらえることになった.ここでは,私の現在の活動指針をまとめた上で,このショーでやる内容を時系列順に示しつつ,そこに込めた意図についてまとめておく.さらに,実践を経ての成果について最後に触れておきたい.

 

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活動指針の大枠は,vol.11で述べたことと大きくは変わっていないが,マイナーチェンジした部分もあるので,ここで改めてまとめておこう.

 

指針の二本柱として,「どのように伝えれば相手に伝わるか?」という方法論と,「何を伝えなければならないのか?」という目的論があり,これらをまとめて,「科学という”メガネ”で、日常生活を”学び”の場に ~世界は大きな科学館~」という基本方針を持っている.方法論では,教育心理学,仕掛学,行動分析学,組織論,演劇論など,様々なアプローチから伝わるための方法を模索し,実践を経て修正するようにしている.目的論では,科学そのものを伝えることを念頭に,人文・社会科学まで射程に入れながら,歴史という知の蓄積,仮説演繹法や実験といった科学の方法,ピアレビューといった科学の営みなど「方法論としての科学」を伝えるようにしている.

 

これらをもとに基本方針では,日常生活を導入や題材として用い,歴史のストーリーを織り交ぜながら,好奇心・探究心・情報収集・批判的思考・行動力の5つの育成を目指している.そこから最終的には,科学というものの見方/考え方/捉え方=”メガネ”によって,日常生活の中から今までの自分には見えなかった新しい世界が見えるようになること=”学び”を参加者が能動的かつ自発的に得られるようにしている.さらに,科学コミュニケーション全体における立ち位置としては,他の方々の実践における”学び”を増やすための土台となる,基礎的な”メガネ”を提供することを目標としている.つまり,私のイベントを経た上で他の方々のイベントを見たほうが,他の方々のイベントを単独で見るより多くの”学び”があるようにしたいというスタンスである.

 

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上記の活動指針を踏まえた上で,今回制作したショーを見ていこう.

 

 

最初は日常生活の風景から始め,チョコレート(お菓子)を半分に分けるというありがちなシチュエーションを提示する.一般的なサイエンスショーでは,冒頭部分で例えば「空気」や「光」といった学問的な単語を提示し,そこから掘り下げていく形式がよく取られている.しかし,これでは冒頭から距離を置いている感が否めず,少なくとも扱う内容を自分ごととして捉える上では効果的に働いていない.私の活動指針では,最終的に参加者自身が主体となることが求められるため,このような形式ではなく,参加者の日常生活を出発点とする,言い換えれば,参加者に寄り添っていくことを導入として行っている.しかし,単に参加者に寄り添うだけでは科学は伝えきれない.参加者に寄り添いつつも,そこから科学の世界まで繋げなければならない.このことについては次で述べる.

 

 

※肖像画はいずれもwikipediaより.以下同様.

 

ここでは,日常生活の中から疑問を見つけること(好奇心)に加え,ここで生まれた疑問を2400年前のデモクリトスの原子という概念の提唱と重ねることで,日常生活と科学の世界との橋渡しを試みた.先述した導入が科学とつながった瞬間である.科学の一分野である化学は,歴史的には物質の根源と物質の分割可能性が問題となって生まれた学問である†.現代ではその成果にそれぞれ”元素”と”原子”という名前がつけられており,ここではそのうち”原子”に焦点を当ててショーを制作した.もちろんデモクリトスがチョコレートを分ける中で原子という概念を提唱したわけではないが(実際は石の分割だったらしい),日常生活と科学の世界をつなげるという目的にはそぐうと考える.

 

 

 

科学は歴史という壮大かつ流動的なストーリーを持っている.そして,現代を生きる私たちは,歴史として蓄積されてきた”巨人”の肩の上に乗って科学を発展させ,さらには我々の生活が成り立っている.歴史を科学コミュニケーションに取り入れることには,このような「壮大な知の蓄積」への接続それへの感動という点で意義があると考えている.この内容についてはvol.11を参照してほしい.また,歴史的観点を化学教育に取り入れることで化学教育の充実を図る実践指針が報告されていることからも†,歴史を絡めることは有効であると考えられる.

 

ここにおいては,「上手く説明できる」という表現がカギである.まず,科学は真理ではない.ある現象=事実があり,それを客観的かつ合理的に説明することを目指して科学は発展してきた.そして,もしそのように説明できない現象が見いだされたら,従来の説明に何らかの変更を加えて進んでいく.合理的に説明できない現象が起こらない保証はどこにもないため,科学は常に100 %にはなりえないのである(この100 %になりえなさが科学の発展に寄与しているといえよう).つまり,もしかしたら明日には,原子というモデルでは説明できない現象が見つかるかもしれない.にもかかわらず,原子を絶対的なものとして断定していいのか――

 

従来の科学コミュニケーションあるいは科学教育では,あたかも今分かっていることが真実であるかのように説明することが多い.しかし,上述の通り科学は実際そのような営みではなく,実際の科学の営みとの間にギャップが存在しているといえる.このギャップをできるだけ埋めたいというのが,このような表現を用いた意図である.

 

やや脱線するが,私の科学コミュニケーションへの課題意識の1つとして,「科学コミュニケーターの科学の専門性の向上」というものがある.科学コミュニケーターが科学を分かった”つもり”でいて,実際の科学とは異なった”科学”を伝えることになると,それに感化されて科学コミュニケーターになった人が”科学”を伝え,またそれに……といった流れで悪循環に陥ってしまう可能性がある.vol.11でエンタメ消費に関する指摘をしたが,その一番の問題はここにあると考えている.上述したギャップがこの悪循環に寄与しうるということは意識しておかねばならない.

 

 

 

ここでドルトンの原子説を登場させる.ここでは原子という概念,もっと言えばあらゆるものを粒として捉える考え方=粒の概念を提示することが主である.粒の概念は以降全体を貫くものであるため,ここできちんと押さえておけるよう先述した方法論を活かしつつ丁寧に説明を行った(歴史を交えた構成も,ここでは方法論の1つとして寄与している).一般的な科学コミュニケーションは学校における科学教育と異なり,短時間でその場限りという刹那性が加わる.したがって,本当に伝えなければならないことに絞って行うことが必要である.このショーでは粒の概念を理解することに焦点を当てて構成しているため,この後何度も粒の概念という言葉が登場することとなる.

 

原子説の背景にある重要な発明は天秤である.天秤自体は大昔からあったが,質量を精密に測定できる天秤が生まれたことにより,定比例の法則や倍数比例の法則がまとめられ,原子説の提唱に至った.サイエンスショーにおいて天秤が使われる機会はあまり多くないが(私自身過去に一度福岡市科学館のサイエンスショーで見た限りである),こういう歴史的な背景があることを踏まえると,天秤の実験を入れることには大きな意義があると考える.このショーにおいても,天秤を用いて質量を比較する実験をこの後に行うことにしている.何の質量を比較するか,といったところで様々な内容を行うことができるだろう(今回は空気に質量があることを確認する実験で用いた).

 

 

 

科学コミュニケーションにおいて広く行われている”実験”だが,はたしてその”実験”が科学における実験と乖離していないだろうか,という疑問が私の中に長い間あった.例えば,巨大空気砲を撃つだけでは,それは実験ではなく単にある現象を起こしただけである.大気圧によって一斗缶を潰す”実験”では,例えば外部の空気がない,あるいは減圧した状態において一斗缶が潰れないことを示さないと,空気に原因帰属をすることができず,実験にはなりえない(実際にできるかどうかは別として).”実験”をやることにも理解促進といった点で一定の効果はあると考えているが,先述した悪循環に陥らないためにもそれが科学における実験であると誤解されてしまうことは避けなければならない.そこで私は,実験の方法を疑う活動(批判的思考)をショーの中に取り入れた.例えば,風船に異なる体積の空気を入れて,天秤を用いて質量を比較する実験を行う際に,意図的に異なる質量を持つ風船を用いた.もちろん,事前に風船だけの重さを比較することはしていない.これにより天秤の腕の振れが空気でなく風船の質量の違いに由来するものではないか,というツッコミが生まれることを目論んだ.

 

 

 

同時代に,原子説では説明がつかない現象が報告されていた.現象を客観的かつ合理的に説明できることが科学の必要条件であることは先述した通りだが,この条件が揺るがされたわけである.こうなると,現状のモデルを修正,あるいは別のモデルを提唱するほかない.原子説においては,原子が結合した分子を考えることで,この問題を解決した.

 

先程から度々出てきた「+α」について説明しておこう.今回のショーでは主要なスライドのコピーを参加者に持ち帰り資料として渡している.つまり,家に帰った後にもショーの内容を復習できるようにしてある.そこで,ショーの本編では基本的に触れないが,内容に関連したやや発展的な内容を「+α」としてまとめてある.ショーの本編では触れないため全員にその場で読んもらう必要はなく,これがふりがなを振っていない理由である.

 

 

 

原子説の際にも出てきた炭素の燃焼についてのスライドも絡めながら,このスライドの意図について説明する.先に「現象をうまく説明できる/できない」ということを話したが,「説明できる/できない」というからには,「説明できる/できない」ことを説明する必要がある.ここでは,科学者の追体験を通じて,科学における考え方の提示を試みた.「『学ぶ』は『真似ぶ』」ということはよく言われているが,ここでの追体験=『真似』は科学者が「やったこと」ではなく,科学者が「考えたこと」であるのがポイントである.

 

科学者が「やったこと」の追体験は,科学コミュニケーションにおいて既になされていることが多い.しかし,「やったこと」それ自体はその先の広がりに乏しく,単なる紹介に終わってしまうことが多い.さらに私の基本指針にある「方法論としての科学」という点にはそぐわない.一方,科学者が「考えたこと」は,例えば「なぜそのようなことをやったのか」「結果からどのように考えたか」などから,その大元にある証明,論理,モデル化などの「方法論としての科学」につなげることが十分可能であり,他の場面にも応用が効く.

 

このスライドを元にして説明しよう.水素の燃焼に際しては,水素2単位と酸素1単位が反応して水2単位が生成されることが事実として知られていた.しかし,原子説を仮定すると水には酸素が0.5個ずつ含まれていることとなり,これは原子が分割不可能であるという原子説と矛盾する.したがって原子説では現象を説明しきれない.以上が水素の燃焼実験をもとに原子説の不完全性を証明するプロセスである.このプロセス自体は背理法であり,「もし○○だったらおかしくならないか?」という批判的観点を持つことは様々な場面で応用可能である.

 

 

 

分子という概念が提唱されると,そこから様々な分子が設計・合成されるようになった.また,自然界にある物質の分子構造を特定することも進められた.ここでは,野菜などに含まれる紫色物質であるアントシアニンを題材に,pHによって構造と性質がどのように変わるのかを提示した.

 

ここでのカギは,酸性・中性・アルカリ性といった液性について大々的に扱っていないことである.科学コミュニケーションにおいてアントシアニンを用いる際は,多くが液性の違いと色の違いの対応付けに重点を置いている.しかし,今回のショーでは一貫して粒の概念を取り上げているため,「原子の結合様式=分子構造の違いと性質の違い」の対応付けに重点を置いた.すると,従来重点を置かれてきた液性について必ずしも触れる必要がなくなる.ただ,他の方々が液性を扱っている以上,「他の方々の実践における”学び”を増やすための土台となる,基礎的な”メガネ”を提供する」ことを目標としている私の活動において,液性を紹介しておく必要があると考える.その結果,+αとして液性を載せておくにとどまり,ショーの本編では説明を行わない形をとった.他の方々の実践において液性が出てきた際に,液性と色の対応付けの間に分子構造が入り込むようにすることが目指すところである.

 

また,「まちがいさがし」としたのもポイントである.「遊びと学びの融合」ということで様々な実践を行っている方がいるが,見てみると遊びと学びの間の関連に乏しく,結果として「学びのない遊び」や「遊びの消費」になってしまっていることも少なくない.ここでは,遊びを行う中で無自覚のうちになされることが,学びにおける必要条件となっているように構成することで,「遊びと学びの融合」を目指した.このことに関しては過去にUTaTanéとして制作した「アイデアをつくる」という展示で実践しているため,そのノウハウを活かしながら構成した.具体的に説明すると,ここでの学びは「分子構造の違いの把握」が第一にあり,その上に性質(色)の違いと対応付けがかかる構造になっている.「分子構造の違い」を押さえることを考えると,自然と「違い」を見つけるような遊びを取り入れれば良い.ゲームの中で「違い」が重視されているもので一番簡単なものは「まちがいさがし」だろう.そこで,分子構造を題材に「まちがいさがし」を行い,遊んでいる中で自然と分子構造の違いを把握するという学びが得られるようにした.遊びが終わった段階で学びの基礎工事が完成しているわけである.

 

 

 

一連のストーリーの最後に置いたのが,原子・分子を見ることが可能になったという内容である.お気づきとは思うが,これは2400年前にデモクリトスが受けた批判に対する答えである(批判が伏線となっている).これによって,化学の発展の様子を示すことを試みた.さらに,ここで用いた題材は,最新(とは言っても13年前であるが)の研究によってもたらされた知見である.よく科学コミュニケーションにおいて学習指導要領に基づいて行っていることがあるが,適切な導入と内容選定,ストーリーなどが噛み合えば,「小学生だから大学の内容は分からない」といったことは起こらないと考えている.もちろん,学習指導要領に基づいて既有知識や発達段階を確認したり,トレンドなどに目を配りながら生活知を察したりしておくことは必要である.ここでは,冒頭から一貫して粒の概念を伝えることを意図しており,粒が可視化されただけという即時的に理解できる内容を選んだことにより,科学の深淵まで踏み込みながらも理解のハードルが大幅に下がったと考えられる.

 

 

 

耳にタコができるほど繰り返しているが,ここまで一貫して物質を粒の概念で考えることを目標としてきた.この考え方に基づいて世界を捉えようとする学問が化学であり(本来元素も含ませるべきではあるが,ここでは内容のつながりの都合上カットした),ここでは今まで考えてきた内容が化学であることをブックマーク的に押さえてもらうことを意図した.既にお気づきかとは思うが,このショーのタイトルである「カガクのメガネで見るセカイ」の「カガク」は,方法論としての「科学」と原子・分子という概念で世界を捉える学問分野としての「化学」のダブルミーニングである.

 

 

 

これまでの科学・技術系イベントを見ていると,ある学問や技術によってできるようになったことに重点が置かれていて,それらによってできないことや生じた/生じうる問題,課題といったマイナス面については大々的に触れられていない傾向が伺える.分かりやすい例としてAIが挙げられる.AIと会話ができる展示などAIにできることはよく展示にあがるが,AIにできないことを展示している例は(私の狭い範囲の経験では)見たことがない.しかし実際のところ,AIができることには限界があるという指摘は,既に様々な書籍においてなされている††.AIにできないことが分かって初めてAIと人間の共存・共栄について考えられるのではないか,AIにできないことを触れていないことがAIに何でも任せればいいという”AI万能説”が生まれる原因ではないだろうか,ということを最近考えている.実際,過去にサイエンスアゴラにて「アイデアをつくる」を行った際に,特に子どもがあらゆるものを短絡的にAIと結びつける傾向にあり,危機感を抱いたことを覚えている.

 

ショーの内容に話を戻そう.化学によって様々な恩恵を受けた一方,様々な弊害も生じている.これらはどちらも”伝わる”ようにきちんと話す必要があると考える.えば,プラスチックについて扱うときは,導入として「洋服についているタグを見てみて」と投げかけることで,参加者の能動性を刺激しつつ,「プラスチックを着ている」こと,プラスチックが想像以上広く生活に根付いていることへの意外性を誘起することを目指した.電池のところでは「昨年のノーベル賞は誰か」という問いかけを行い,そこから生活における電池の浸透といった話を始めていくようにした.さらに,ノーベル賞を恩恵と弊害の橋渡しとして活用し,弊害の導入部でノーベルが発明したダイナマイトが軍事利用された話について取り上げた.細かいところでは,薬の写真として錠剤ではなく顆粒を用いた点もポイントである(子どもが飲む薬は多くが錠剤ではなく顆粒や粉末である).

 

ただ,単に恩恵と弊害を紹介して,「いいところは活用し,悪いところは改善する」と話を持っていくだけでは不十分である.トランスサイエンスという言葉がある通り,「いいところは活用し,悪いところは改善するのが基本だが,社会的なファクターが複雑に絡む中でどのような手を打つのが”最適解”なのかについて考えなければならない」というのが現実であるから,そこまで踏み込むのが本来”すべき”ことではある.しかし,ここまでの内容に加えてこの話まで行うと内容過多となってしまう.さらに,このことについて踏み込んだ科学コミュニケーションを行っている方々やイベントが(子ども向けかどうかはともかく)いくらか存在している.基本指針と照らし合わせてこれらのことを考えると,私はその先の内容について考えるための基礎としての導入部分のみを提示して,その先の内容は他の方々にお任せするのが適切である.

 

 

私自身,(理科に限らず)学ぶことの意義は「世界を見たときの解像度が上がる」ことだと考えている.例えば,私のように絵画の素人が美術館に行くのと,美術史について学んだ方が美術館に行くのとでは,後者のほうがより深いところまで見えているだろう(もちろん,素人ゆえの見方や感性も大切である).過去にあった経験では,高知城に行った際にたまたま現地のガイドさんと仲良くなり,1時間ほどかけて案内をしていただいたことがあるが,ガイドさんは私が見落とすような城内の細かい部分まで見えていて,それを歴史的背景と絡めながら詳細に説明してくださったことを今でも鮮明に覚えている.これらと同様に,化学を学ぶことで見えてくる世界もあり,ここでは私が思いついた「化学という”メガネ”をかけることで見える世界」を提示した.「解像度が上がる」楽しさを伝えることで,能動的に学び続ける契機とすることを意図している.

 

 

 

最後に提示したのは,冒頭の基本方針でまとめた5つの能力である.このことは以前にも白猫ラボで行い,参加者がメモを取り始めるなど効果があるように伺えた.この5つの能力については,大学の教授が講義中に話した内容が元になっており,科学の最前線を進む人の考えをそのまま伝えるという点で,大きな意味があると考えている.

 

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以上がショーを制作する際に考えていたことである.しかし,いくら頭の中で完璧に仕上げていても,それが現実化されなければ意味はない.また,科学コミュニケーションはイベントの1つ1つが実践の場であり,実践を通じて理論を修正し,修正した理論に基づき実践を行うという理論と実践のサイクルをバランス良く回すことが発展の鍵となる.そこで以下では,実際の様子やふりかえりシート・アンケートをもとに考察した内容を,一部抜粋して述べる.なお,今回の実践の対象は小学校低中学年である.

 

まず,全体として得られた傾向についてまとめる.1,2年生のコメントからは,「面白い」と「難しい」がほぼ同数得られた.「面白い」については,ショーへの満足度(他人へのオススメ度合い)が高い子,言語表現が比較的得意と思われる子から多く挙がった一方,そうでない子からは「難しい」という声が多く挙がった.全体として言葉による説明が多かったことが理由として考えられる.また,言語を扱える子に対しては「面白い」コンテンツになっているともいえるだろう.

 

「ショーを通じて自分の中で変わったことはあるか」という質問においては,「原子・分子」について言及するコメントが無かった一方,「実験でくらべる」といった実験の方法に関するコメントがついた.前者から,今回の実践において「原子・分子をもとにした化学という”メガネ”」を提供できたかは不十分であったといえる.そもそも比喩的表現で理解するのが難しいことに加え,まとめの部分でバタついてしまったことが一原因だと考えられるため,まとめの時間を十分に取れる構成にするなど改良したい.また後者から,実験の方法を疑う活動には一定の効果があったといえる.この点については様々な題材を用いてさらに研究していきたい.

 

次に,ショーのコンテンツごとに結果をまとめる.チョコレートから原子説にもっていく流れは,多くの子どもたちが納得の表情を見せていたことが伺えた.納得といっても原子説自体には賛否両論だったが,デモクリトスの原子説への批判は腑に落ちた様子だった.

 

科学者の追体験は,どうしても論理と言語による説明に偏ってしまったこともあり,特に低学年の子にとっては難しかったことが分かった.ショー中に説明するより,配布資料に入れておくようにするのが良いかもしれない.

 

天秤の実験をする際に,思考実験として「もし空気に重さがあったら腕はどうなるか」を,実際に子どもたちに腕を広げて動かしてもらうことで行ったところ,子どもたちの誘引性が強く効果的だったことが分かった.これは以前福岡市科学館で見たときに用いていた方法をそのまま利用したものである.科学館などでショーを見る際には,用いている方法に注目しストックとして持っておくと良いだろう.本質を抽出して他の実験において活かせるようになるとなお良い.

 

「まちがいさがし」は,今回のショーの中でもかなり効果的だった.実際子どもたちが真剣に「まちがいさがし」をしていたこと,この後に行った実験において「変わったってことは違う分子になったってことだよね」と確認した際に納得している様子が伺えたことからも,「遊びと学びの融合」がなされたと考えられる.ただ,にもかかわらず先述したコメントが付いていないのには,何らかの不十分な点があるのだろう.このことについてはもう少し考えていきたい.

 

最後に,ショーを通じて見えた現状の課題について何点かまとめておく.まず,今回のショーでは「科学と聞いてどんなイメージをもつか」という質問をアンケートで行った.そこから伺えたこととして,「①科学=理科という価値観が出来上がっていること」「②考えることに理科の意義を見出していること」「③今回のショーをオススメしなかった子から『面白い』『すごい』『楽しい』といった感想が多く出たこと」が挙げられる.①についてはvol.11でも指摘したとおりである.ただ,思考体系や知の蓄積,自己刷新性などの「方法論としての科学」は,理科に限らずあらゆる学問においてなされていることであり,このことも伝えていく必要があると考えている.②は好ましいことではあるが,「どのように考えるか」という方法論的な側面に注意が必要だろう.具体的には,何でもかんでも神に原因帰属するような考え方は,科学としては不適切といえる.③は現状の課題が特に浮き彫りになったと考えている.つまり,普段の科学イベントも「面白い」「すごい」「楽しい」という観点でしか捉えていないのではないか,言い換えれば,一般的な科学イベントにおける”科学の目”の醸成が不十分になっていないか,ということである.また,特に「すごい」という感想からは,自分自身を科学と離れたところに位置づけ,エンタメとして科学を受容するだけという,ある種の「思考停止」が伺える.自分自身が当事者として科学について考える姿勢を醸成するための方法論を探究して行く必要があるだろう.

 

ショーの中で挙がった声に,「前にその実験を見たことがあるからもう分かっている」というものがあった.私自身,これを聞いたとき2つの点で危機感を抱いた.1つは一般的なショーでなされていない「原子・分子」をもとにした現象理解を行っているにもかかわらず,それが伝わっていなかったことである.これは私の伝え方や構成に起因するものであるからそこまで大きな問題ではない.問題は2つ目で,子どもたちが一度実験を行って何らかの(恐らく表面的な用語の提示がメインの)説明を受けただけで,全てが分かったかのように錯覚してしまっていないか,ということである.このようなマインドを持っていることによる問題は大きく2つあって,1つは分からないことが意識化されないこと,もう1つは分からないことが意識化されても分かろうとする意欲が湧かない,あるいは既に持っている価値体系を変えようとしないことである.特に後者についてはテストで点を取るために勉強するという文化が根深いのかな,と勝手に推測してみたりもしたが,実際のところどうなのかは分からない.このようなマインドに対して働きかけができないかを考えるのは今後の課題として残しておいて(そう簡単な問題ではなさそうだ),私自身もう少し学んだ上で考えていきたい.少なくとも手持ちの書籍では「学びの構造」†が活用できそうである.

 

以上が実践を経ての考察の一部である.ショーを制作しているときには考えもしなかったところで様々な課題が見えてきた.まさに1回1回のイベントが実践の場,研究の場である.今後大々的にショーを行うことはあまりないと思うが,今回のショーを改良したものを”持ちネタ”ならぬ”持ちショー”として,いつでも行えるようにしておきたいと考えている.

 

私の科学コミュニケーションの道は,まだまだ続く.

 

 

P.S. 先日,すぎなみサイエンスフェスタの実行委員長とお話をする機会を設けていただき,私が考えている科学コミュニケーションなどについて議論を行った.そこでの内容が買われてなのかは分からないが,今年度から私はすぎなみサイエンスフェスタの実行委員として携わることになった.もしかしたら,来年のすぎなみサイエンスフェスタで”持ちショー”が見られるかもしれない.

 

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参考文献

vol.11で取り上げたもの

アイザック・アシモフ「化学の歴史」(ちくま学芸文庫)

柴田和子・橘高知義 1984: 「気体化学史の事例研究と科学教育への積極的利用」 『科学教育研究』 8(1), 3-12.

新井紀子「AI vs 教科書が読めない子どもたち」(東洋経済新報社)

安宅和人「シン・ニホン AI×データ時代における日本の再生と人材育成」(NewsPicksパブリッシング)

佐伯胖「学びの構造」(東洋館出版社)