“飽きっぽい人はダメ。
こういう人は何をやっても成功しない”。
飽きずに物事を続けることで一定の成果が期待できるということを私たちは知っています。
継続は力。
さて、飽きっぽい人がダメなのかといえばそうでもないと私は思っています。
飽きることが悪いのではありません。
すぐに飽きてしまうようなことにしか矛先が向けられないこと、このことが不幸なのです。
飽きるという“作業”は飽きない“何か”を見つけるための第一歩です。
飽きることにもっと前向きになる。
飽きることに飽きてしまうくらい飽きることに積極的になる。
こういう紆余曲折を経て私たちは飽きずに専念する“何か”を見つけることができるのです。
飽きっぽい人などこの世にはいません。
飽きることのない“何か”を見つけるチャンスに遭遇しなかっただけのことなのです。
“飽きっぽい自分を正さなければならない!”。
こうやって自分に鞭を打ち続けることに一体どんな意義があるのでしょうか?
飽きっぽさから脱却した頃には人生が終わってしまいますね。
“何か”を見つけて一心不乱に人生を歩んでいる人。
そういう人の姿を生で見る、できることなら話をしてみる。
こういう経験は思いのほか大切です。
人物だけではありません。
日常では遭遇することのないような大自然に身を置くこともチャンスを広げる契機になるはず。
それが食べ物であることもあるかも知れませんね。
飽きてしまう子どもを叱るのではなく、飽きない“何か”を見つける作業を一緒にしてあげること。
これが教育だと私は考えます。
親と教師の責任は重大ですね。