糸魚川ジオパークの紹介228 神様になった芭蕉の碑と汐路の鐘 | 糸魚川ジオパークのおじさんのブログ

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日本で最初に世界ジオパークに認定された糸魚川ジオパークの魅力や出来事などを紹介します。

 優れた業績や才能の持ち主には神様の称号が贈られることがあります。奥の細道で有名な松尾芭蕉には花本大神とか大明神の神号が贈られています。


 菅原道真が天神様であり、徳川家康が東照大権現と言われたりします。また太平洋戦争の最中には特別に軍功のあった軍人に軍神なんて言うことがありました。軍神山本五十六とか・・・


 芭蕉に神号が贈られたのは芭蕉150回忌の天保14年(1843年)に俳人の田川鳳朗が京の二条家に誓願して朝廷から下賜されたものであると言われています。






 芭蕉の神号の碑は、博多の櫛田神社や東京深川の富岡八幡宮境内などにもありますが、ここ能生にもあるのです。花本(花下)と言うのは西行の歌に「願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」によるものだそうです。


 能生には、江戸時代の終わり頃、旧家の岡本家で大肝煎をしていた憲孝が「姫山」と号した俳人であり、田川鳳朗と親交もあったことから鳳朗の揮毫で嘉永3年(1850年)に能生町の才蔵山に建てました。


 その後、平成元年に奥の細道300年記念で白山神社の脇に移したものです。(民俗資料館の前)


白山神社には汐路の鐘を詠んだ芭蕉の句がありますが、神社の別当であった泰平寺の梵鐘のお話です。







 「曙や霧にうつまく鐘の声」ですが、芭蕉はこの鐘を見ていませんが話に聞いただけでこの句を残しました。その時の宿は「玉屋」さんであったようです。


人の手を触れずに潮の満ちてくるのに共鳴して鐘が自然に音を出していたと言うので「汐路の鐘」と言われています。ジオ的な場所の条件がうまく適合したものなのでしょう。偶然が重なった貴重な現象です。


 それでも、ここの梵鐘はサンザンな目に遭っています。源平時代に源義経が奥州に落ち延びる時に能生に立ち寄りました。その時にはお供の常陸坊海尊が追銘をしています。


 その後火災で壊れ、能登の穴水で残銅を鋳造し直します(1499年)が、大雪で破損します(1680年)。柏崎で再度鋳直しましたが(1740年)、明治の初めに廃仏稀釈の令により神社と寺が一緒にあるのは禁止され寺が分離されました。その時に坂道から投げられて破損してしまいました。それが運良くある家の縁の下におかれていたので残っていたとのこと。数奇な運命を辿ります。


 芭蕉が通ったのは1689年元禄2年のことですので大雪で破損した後になります。汐の満つるのを感じたのは恐らく大雪で破損する前のことであったのかと推察されます。


今、白山神社の宝物殿に県指定の文化財として安置されていますが満潮を感じて反応することは出来ません。




白山神社を訪問の際には汐路の鐘の句碑とともに花本大明神の碑も併せてご覧下さい。