陽光太上天皇妃 後陽成天皇生母 藤原晴子墓(月輪陵) | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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【平成29年10月10日(火)参拝】

 

引き続き月輪陵。

 

陽光太上天皇妃藤原晴子墓(月輪陵) 所在地:京都市東山区今熊野泉山町泉涌寺

 

                                

 

                                

 

                                

藤原(勧修寺)晴子(かじゅうじ はるこ、天文22年(1553年) - 元和6年2月18日(1620年3月21日))は、安土桃山時代から江戸時代の女性。正親町天皇の第五皇子・誠仁親王女房後陽成天皇生母女院。院号は新上東門院

父は勧修寺晴右で、母は従三位粟屋元子粟屋元隆の子)。勧修寺晴豊万里小路充房正親町三条公仲室らの姉妹。子に後陽成天皇空性法親王良恕法親王八条宮智仁親王永邵女王など6男3女がいる。母の実家、粟屋氏甲斐源氏安田氏の一族で、安田義定の子孫である。当時は同族で若狭守護だった武田氏の最有力家臣であり武家の名門の家柄。

永禄10年(1567年)から誠仁親王に女房として仕え、「阿茶局」と称したが、実質においては妃に近い存在であった。天正14年(1586年)11月、彼女の産んだ後陽成天皇即位すると、「国母」として遇されて他の女房と一線を画され、同年11月20日に准三宮となった。慶長5年12月29日(1601年1月23日)、院号宣下により女院となり、新上東門院と号した。元和6年2月18日、68歳で崩御した。墓は京都泉湧寺月輪陵域にある。

 

(参考文献: 2017年6月20日付ウィキ参照)