【平成29年10月10日(火)参拝】
引き続き月輪陵。
永禄11年(1568年)12月に親王宣下を受け元服。資金難のため延び延びになっていたが、織田信長が費用を負担してようやく実現したものである。天正12年(1584年)1月には三品に叙せられている。
天正7年(1579年)11月以降、誠仁親王は織田信長が献上した「二条新御所」と呼ばれた邸宅に居を構えた。これはもとは二条家の邸宅であり、信長が気に入って二条家から譲り受けて大改造を施し、自らの居館とした建物であった。二条新御所は、正親町天皇が居住する「上御所」に対して「下御所」と呼ばれ、禁裏(上御所)同様に小番も整備され、正親町天皇も朝廷の意志決定に際しては必ず誠仁親王に意見を求めるようになり、さながら「副朝廷」の様相を呈した。奈良興福寺の僧侶が残した日誌である「多聞院日記」や「蓮成院記録」では、誠仁を「王」「主上」「今上皇帝」などと呼んでおり、事実上の天皇(共同統治者)とみなされていたことがうかがえる。
正親町天皇はすでに当時としては高齢であり、誠仁親王もいつ即位してもおかしくない年齢であった。しかし、朝廷が譲位にともなう一連の儀式を自力で挙行することは経済的に不可能であり、また先々代後柏原天皇・先代後奈良天皇・そして正親町天皇自身の3人の天皇のように、全国の戦国大名から広く寄付を募るという手法も、信長の覇権の下ではもはや使えなかった。朝廷は、譲位の実現をひたすら信長に働きかけざるを得ず、左大臣推任・三職推任など、朝廷としては破格の交換条件を提示して信長を動かそうとしたが、信長は明示的に拒絶することはなかったものの、その死に至るまで消極的な態度に終始した。ただし、安土城には天皇の行幸を迎える「御幸の間」が設置されており、これは誠仁親王の即位を想定したものと推測されている。
本能寺の変の際、信長の嫡男信忠は宿所としていた妙覚寺を放棄し、より軍事施設として優れていた二条新御所に立て籠もった。「イエズス会日本年報」によれば、明智光秀の軍勢が御所を包囲するなか、誠仁親王は光秀に「自分も腹を切るべきか」と尋ねたという。自分が信長に擁立され、信長に依存した存在であり、信長が倒されればそれに殉じることもありうる立場であると誠仁は考えていたのである。幸い信忠に同行していた村井貞勝の交渉により、誠仁親王とその妻子・宿直の公家たちは御所を脱出し、禁裏に逃げ込んだ。誠仁親王一行にまぎれこんだ逃亡者が出ることを警戒した光秀は、馬や乗り物の使用を禁じたため、誠仁親王は徒歩で移動しなければならなかった。同行していた連歌師里村紹巴がどこからか粗末な荷運び用の輿を調達したので、誠仁親王だけは途中からそれに乗ったという。
信長の後継者となった豊臣秀吉は、譲位して上皇となる正親町天皇のための「院御所」の建設に着手するなど、譲位に積極的に取り組む姿勢を見せたが、誠仁親王は譲位を待たずに天正14年(1586年)7月に急死してしまった。あまりの突然の死は社会に衝撃を与えたらしく「秀吉が誠仁親王の側室と密通したことに抗議して自殺したのだ」あるいは「誠仁親王に代わって秀吉が天皇になるつもりだ」などという噂が流れた。実際は、誠仁の遺児和仁親王(後陽成天皇)が同年11月に祖父の猶子とされて皇位を譲られた。時期は不明であるが、後陽成は早世した父に「陽光院」と諡し、太上天皇の尊号を贈った。
親王の墓所は太上天皇を追尊されたため「陵」と称される。名称は月輪陵。京都東山泉涌寺山内にある。
【系譜】
女房:勧修寺晴子(新上東門院)(1553年 - 1620年) - 勧修寺晴右の娘。
・第一王子:和仁親王(後陽成天皇)(1571年 - 1617年)
(参考文献:2017年7月30日付ウィキ参照)