第107代 後陽成天皇 深草北陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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【平成29年10月10日(火)参拝】

 

そして今年の4月の初参拝から数えて、本日で11回目にして深草北陵ファイナルです!!

 

後陽成(ごようぜい)天皇陵 御陵名:深草北陵 陵形:方形堂  所在地:京都市伏見区深草坊町

 

               

 

               

       

               

 

               

 

 

後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱は初め和仁(かずひと)、慶長3年(1598年)12月に周仁(かたひと)と改めた。

正親町天皇の皇子・誠仁親王陽光院太上天皇)の第一皇子。母は勧修寺晴右の娘、新上東門院・藤原晴子

 

天正14年(1586年)7月に正親町天皇の東宮であった誠仁親王が薨去し、皇孫に当たる和仁親王が同年11月7日に、皇祖父にあたる正親町天皇から譲位され受禅した。

後陽成天皇の在位期間は、ちょうど豊臣政権の天下統一と江戸幕府成立の時期をまたいでおり、前半と後半で天皇に対する扱いが変わっている。豊臣秀吉は、支配の権威として関白太閤の位を利用したために天皇を尊重し、その権威を高める必要があり、朝廷の威信回復に尽力した。天正16年(1588年)に秀吉の演出した天皇の聚楽第行幸は盛大に行われた。秀吉の「三国国割」構想によれば文禄の役で明を征服した暁には後陽成天皇を明の皇帝として北京に遷し、良仁親王八条宮智仁親王を日本の天皇にしようとした。ただし、後陽成天皇は秀吉の外征には反対であり、秀吉に対して「無体な所業」であると諭している。 秀吉は文禄2年(1593年)に文禄の役で日本に持ち帰られた李朝銅活字の器具と印刷書籍を後陽成天皇に献上した。同年、天皇は六条有広や西洞院時慶らに命じ、この技術を用いて「古文孝教」を印刷したと伝えられている(文禄勅版)。これは日本での銅活字を用いた最初の印刷とされている。また、後陽成天皇は慶長2年(1597年)に李朝銅活字に倣って大型木活字による勅版「錦繍段」を開版させている(慶長勅版)。

後陽成天皇は秀吉の勧めで第1皇子の良仁親王を皇位継承者としていた。ところが慶長3年(1598年)に秀吉が没したのちの10月、病気がちなことを理由として皇弟の八条宮への譲位を望んだ。多数の公卿からは譲位に対して賛同を得られたが、前関白の九条兼孝から良仁親王の廃太子に反対する意見が述べられ、また、秀吉の猶子であった八条宮を快く思わない徳川家康からも承諾されなかった。天皇はやむなく八条宮への譲位を断念したが、3年後に家康の了承を得て良仁親王を強引に仁和寺出家させて第3皇子の政仁親王を立てた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、丹後田辺城に拠って西軍と交戦中の細川幽斎を惜しみ、両軍に勅命を発して開城させている。戦後、家康は天皇と豊臣家の接近を防ぐため、奥平信昌京都所司代に任じて天皇の動きを監視した。慶長8年(1603年)に家康を征夷大将軍に任じ、江戸幕府が開かれた。朝廷権威の抑制をはかる幕府は武家伝奏を設けて更なる監視態勢を整えた。慶長12年(1607年)2月と慶長14年(1609年)7月には宮中女官の密通事件が相次いで発覚した(猪熊事件)。これらに対して激怒した天皇は京都所司代に彼らの極刑を要請した。国母の新上東門院が寛大な処置を望んだこともあって、家康は咎人の猪熊教利らを斬罪としたものの、事件に関与した公家衆5人と女官を蝦夷や伊豆新島などへとそれぞれ配流するにとどめたが、天皇はこの処分を手ぬるいものと考えて不満を抱いた。この一件により天皇は女院とも意志の隔たりを生んで側近の公家衆や生母、皇后とも逢うことが少なくなって孤独の中で暮らすようになり、やがて退位するに至った。猪熊事件を機に慶長18年(1613年)に公家を取締るための公家衆法度が制定され、また、幕府の宮中に対する干渉を更に強めることとなり、官位の叙任権や元号の改元も幕府が握る事となっていく

慶長16年(1611年)、退位に反対する家康を押し切り、政仁親王(後水尾天皇)に譲位して仙洞御所へ退く。だが、後水尾天皇とも上手く行かず、父子の間は長く不和であり続けたと伝えられている。元和3年(1617年)に崩御、宝算47歳。葬儀は火葬で行われた。後陽成天皇より後の天皇は全員が土葬で葬られているので、現在において最後に火葬で葬られた天皇である。

【系譜】

女御藤原(近衛)前子(中和門院、1575-1630) - 近衛前久女、豊臣秀吉養女

 ・第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、1596-1680)

 ・第七皇子:高松宮好仁親王(1603-1638) - 初代高松宮

典侍藤原(日野)輝子(権典侍局、1581-1607) - 日野輝資

典侍藤原(持明院)基子(宰相典侍・大納言典侍、?-1644) - 持明院基孝

 

 (参考文献:2017年10月4日付ウィキ参照)

 

※先日、偶然にも後陽成天皇の命日にあたる9月25日に後陽成天皇四百年式年祭が行われてました。(式典は終わったあとでした…)⇒こちら