追尊 春日宮天皇(天智天皇皇子 光仁天皇御父 志貴皇子)田原西陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
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【平成27年10月12日(月)参拝】

称徳天皇崩御から半世紀遡ります。

次代天皇は第49代光仁天皇なんですが、皇統的に父親の志貴皇子を経由しなければなりません。

奈良交通バスで「JR奈良」「近鉄奈良」から124系統北野行で田原御陵前下車。(約25分)

                                    御陵参道入口付近にある志貴皇子の歌碑。

春日宮天皇陵 御陵名:田原西陵 陵形:円丘 所在地:奈良市矢田原町西山

バス停の西側が参道入口になっています。


制札には「春日宮天皇」と記されています。


左右に石垣が築かれていて神秘的な参道。      150m程ある長~い参道を抜けるとようやく拝所。









志貴皇子(しきのみこ、生年不詳 - 霊亀2年8月11日(716年10月4日))は、飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての皇族。芝基皇子または施基皇子(施基親王)、志紀皇子とも記す。天智天皇第七皇子。位階は二品。
【系譜】
父:天智天皇
母:越道君伊羅都売(こしのみちのきみいらつめ)
贈皇太后:紀橡姫 - 紀諸人女
女子:難波女王(後に内親王)(?-773)
男子:白壁王光仁天皇)(709-782)

壬申の乱により、皇統が天武天皇の系統に移ったために、天智天皇系皇族であった志貴皇子は皇位継承とは全く無縁だった。政治よりも和歌等文化の道に生きた人生だったが、薨去から50年以上後の宝亀元年(770年)に、聖武天皇の娘井上内親王を后とし、母系では天武系となる他戸王を儲けていた六男の白壁王が、皇嗣に擁立され即位した(光仁天皇)ため、春日宮御宇天皇追尊を受けた。かくして皇位に一切執着せず清らかな人生を終えた彼の系統が現在まで長く続く事となった。御陵所の「田原西陵」(奈良市矢田原町)にちなんで田原天皇とも称される。
清澄で自然鑑賞に優れた歌い手として『万葉集』に6首の歌を残している。
代表的な歌として「石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の 萌え出づる春になりにけるかも」(岩の上を流れる滝の上に蕨が芽を出し、春を感じることよ)が有名。(参考文献:ウィキ参照)

帰り道、鹿野園町付近に石標発見。