第48代 称徳天皇 高野陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
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奈良まほろば検定 奈良通1級合格。

【平成27年10月11日(日)参拝】

重祚の再訪という過酷なルールもこの称徳帝で終わりです。
前回8月参拝から2ヶ月が経ち季節も夏から秋に移っています。









ちょうどこの日は西大寺の秋祭りという事で偶然にも山車が御陵の前を通るところでした。


称徳(しょうとく)天皇陵  御陵名:高野陵 考古学名:佐紀高塚山古墳  陵形:前方後円
所在地:奈良県奈良市山稜町 







重祚して称徳天皇は、日本の第48代天皇。
在位期間は、孝謙天皇として749年8月19日 - 758年9月7日、称徳天皇として764年11月6日 - 770年8月28日。
父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。
史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 - 1643年)に至るまで、実に850余年もの間、女帝が立てられることはなかった。

重祚後の治世
淳仁天皇の廃位によって孝謙上皇は事実上、皇位に復帰した。後世では孝謙上皇が重祚したとして、これ以降は称徳天皇と呼ばれる。以降、称徳天皇道鏡による政権運営が6年間にわたって続く事になるが、皇太子はふさわしい人物が現れるまで決められない事とした。
765年に飢饉や和気王の謀叛事件が起きるなど、乱後の政情は不安定であった。同年10月の弓削行幸中に道鏡を太政大臣禅師に任じ、本来臣下には行われない群臣拝賀を道鏡に対して行わせた。一方でほぼ同じ時期に淡路で廃帝・淳仁変死を遂げている。11月には天皇即位とともに行われる大嘗会を行ったが、本来参加しない僧侶が出席するという異例のものであった。ただし即位式は行われていない。またこの年には墾田永年私財法によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じている。
766年10月には海龍王寺で仏舎利が出現したとして、道鏡を法王とした。道鏡の下には法臣・法参議という僧侶の大臣が設置され、弓削御浄浄人が中納言となるなど道鏡の勢力が拡充された。一方で太政官の首席は左大臣・藤原永手であったが、吉備真備を右大臣に抜擢するなど異例ずくめであった。こうして称徳天皇道鏡の二頭体制が確立された。
称徳天皇は次々と大寺に行幸し、西大寺の拡張や西隆寺の造営、百万塔の製作を行うなど仏教重視の政策を推し進めた。一方で神社に対する保護政策も厚かったが、伊勢神宮や宇佐八幡宮内に神宮寺を建立するなど神仏習合がさらに進んだ。また神社の位階である神階制度も開始されている。一方で『続日本紀』では、政治と刑罰が厳しくささいなことで極刑が行われ、冤罪を産んだと評されている。769年5月には称徳天皇の異母妹・不破内親王と氷上志計志麻呂が天皇を呪詛したとして、名を改めた上で流刑にされている。同じく称徳天皇の異母妹・井上内親王を妻としていた中納言・白壁王(後の光仁天皇)は天皇の嫉視を警戒し、酒に溺れた振りをして難を逃れようとしていた。
769年、大宰府の主神(かんづかさ)中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡宮の託宣を報じた。これを確かめるべく、和気清麻呂を勅使として宇佐八幡宮に送ったが、清麻呂はこの託宣は虚偽であると復命した。これに怒った称徳天皇道鏡は清麻呂を改名した上で因幡員外介として左遷し、さらに大隅国へ配流した(宇佐八幡宮神託事件)。10月から11月にかけては造営した由義宮に行幸し、同地を西京とする旨を宣した。770年2月、称徳天皇は再び由義宮に行幸したが翌月の3月なかばに発病し、病臥する事になる。このとき、看病の為に近づけたのは宮人(女官)の吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。道鏡の権力はたちまち衰え、軍事指揮権は藤原永手や吉備真備ら太政官に奪われた。 8月4日、称徳天皇は平城宮西宮寝殿で崩御した。病気回復を願う祈祷が行われたとの史料がないことから、医療行為を施されず見殺しにされたとの主張がある[要高次出典]。
称徳天皇生涯独身であり、子をなすこともなかった。崩御後間もなく群臣が集まって評議し、吉備真備は文室大市もしくは文室浄三を推したが、藤原永手や藤原宿奈麻呂・藤原百川は白壁王を推した。真備が自案に固執すると、永手らは白壁王を指名する称徳天皇の遺詔を読み上げた。このため白壁王が即位して光仁天皇となるが、この遺詔は偽造されたものであった。まもなく道鏡は失脚して下野国薬師寺別当に左遷され、弓削浄人も土佐に流された。墾田私有も宝亀3年(772年)に再開されている。

【竜王大神社】 所在地:奈良市西大寺竜王町1丁目

来村多加史教授説の真陵にも再訪してきました!


やはりここは皇室に所縁があるようだ!