第42代 文武天皇 檜隈安古岡上陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
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【平成27年7月25日(土)参拝】

束明神古墳のあとは飛鳥方面にある文武天皇陵を目指します!
東方向に25~6分歩いたらようやく文武天皇陵が見えてきました。




文武(もんむ)天皇陵  御陵名:檜隈安古岡上陵  陵形:山形  考古学名:栗原塚穴古墳  
所在地:奈良県高市郡明日香村大字栗原







この文武陵も綺麗な形をしてますね。まるで推古陵を彷彿させます。



文武天皇(もんむてんのう)は、日本の第42代天皇(在位:697年8月22日 - 707年7月18日)。 諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年に「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:-豐祖父)と、『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:-眞宗豐祖父)がある。
草壁皇子天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男。母は阿陪皇女(天智天皇皇女、持統天皇の異母妹、のちの元明天皇)。
夫人:(贈太皇太后):藤原宮子(藤原不比等の女)
皇子:首皇子聖武天皇

父草壁皇太子のまま亡くなり即位していないため、本来であれば「皇子」ではなく「王」の呼称が用いられるはずだが、祖母である持統天皇の後見もあってか、立太子以前から皇子の扱いを受けていたと考えられる。
父・草壁が持統天皇3年(689年5月7日)に亡くなり、同696年8月13日には伯父にあたる高市皇子も薨じたため、同697年3月13日立太子。文武天皇元年(697年8月22日)、祖母・持統から譲位されて天皇の位に即き、同月17日(9月7日)即位の詔を宣した。当時15歳という先例のない若さだったため、持統が初めて太上天皇を称し後見役についた。
大宝元年(701年9月9日)に大宝律令が完成し、翌年公布している。 また混乱していた冠位制を改め、新たに官位制を設けた。それまで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間である。
公式記録の続日本紀には妃や皇后を持った記録は無い。皇后及び妃は皇族出身であることが条件であり、即位直後の文武天皇元年8月20日(697年9月10日)に夫人(ぶにん)とした藤原不比等の娘藤原宮子が妻の中で一番上位であった。他に、同日嬪となった石川刀子娘と紀竈門娘がいる。皇后は皇族出身であることが常識であった当時の社会通念上から考えれば、当初より後継者に内定していた段階で、将来の皇后となるべき皇族出身の妃を持たないことは考えられず、何らかの原因で持つことができなかったか、若しくは記録から漏れた(消された)と考えられる。

そして文武陵の北すぐの飛鳥歴史公園内にある中尾山古墳こそが真の文武天皇陵とする意見が有力である。

中尾山古墳 墳形:三段築成八角墳 石槨:横口式石槨 築造:7世紀末~8世紀初
所在地:奈良県高市郡明日香村大字平田





古墳の規模的には小さいと思うのですが、この時期の天皇陵はこんなもんなんですかね?

こちらは公園内にあるご存じ高松塚古墳



被葬者については諸説あり特定されていない。
被葬者論に関しては、忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子ら、天武天皇の皇子を被葬者とする説がある。


(参考文献:ウィキ抜粋)

帰りは飛鳥駅から帰ります。(歴史公園から10分位)








【平成27年9月26日(土)追記】
県道155沿いの野口駐車場前交差点にある石標。