第33代 推古天皇 磯長山田陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
普段は奈良を中心に周りで起こった他愛のない出来事を綴っていきます。
ペナントレース中は甲子園球場に出没しています!
奈良まほろば検定 奈良通1級合格。

【平成27年4月25日(土)参拝】

古墳時代も終わりいよいよ飛鳥時代に突入です!

まぁ神功皇后、飯豊天皇等諸説ありますが…日本史上初の女帝 推古天皇!

【植山古墳】
まずは推古天皇とその子息竹田皇子の磯長山田陵への改葬前の合葬墓ではないかと言われている植山古墳に行って来た。
場所は岡寺駅から東に1km、丸山古墳の東に位置します。


現在は史跡整備工事中で平成28年(来年)の公開だそうですが、一部途中まで上がれるようになってました。


ここはまた来年こなきゃ!

続いては王陵の谷へ。3回目です!


推古(すいこ)天皇陵  御陵名:磯長山田陵  学名:山田高塚古墳  陵形:方丘  所在地:大阪府南河内郡太子町大字山田

いやぁ!素晴らしい御陵です!山にそびえる城塞のようです!



                                  ここの制札も達筆で見ていて気持ちが良い!






                                        孝安天皇陵を彷彿させる見事な石垣!


まわりに何もないので一際目立っている。

推古天皇は、第33代天皇(在位:593年1月15日 - 628年4月15日)。日本初の女帝であると同時に、東アジア初の女性君主である。諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)。『古事記』ではこの天皇までを記している。
天皇号を初めて用いた日本の君主という説もあるが、1998年の飛鳥池工房遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見された以後は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有力となっている。
第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣蘇我稲目の女堅塩媛。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。
『日本書紀』敏達紀では、欽明天皇32年(571年)に異母兄・敏達天皇の妃となり、敏達天皇4年(575年)11月の皇后広姫の崩御を承け、敏達天皇5年3月10日(576年4月23日)、皇后に立てられた。「敏達14年8月15日(585年9月15日)に敏達天皇が崩御した。
敏達天皇との間に菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)、桜井弓張皇女(押坂彦人大兄皇子の妃・来目皇子の妃)ら二男五女をもうけた。
その後、用明天皇が2年ほど皇位に在ったが、用明2年4月9日(587年5月21日)に崩御した後、穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。そこで皇太后(額田部皇女)が詔を下して泊瀬部皇子に即位を命じたという。しかし、5年後の祟峻5年旧暦11月3日(592年12月12日)には崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、翌月である旧暦12月8日に、先々代の皇后であった額田部皇女が、馬子に請われて、豊浦宮において即位した。時に彼女は39歳で、史上初の女帝となった(ただし、神功皇后と飯豊皇女を歴代から除外した場合)。(参考文献:ウィキ抜粋)


【二子塚古墳】
推古陵から南東200mに位置する双方墳の二子塚古墳こそが本当の推古天皇と竹田皇子の合葬陵であるとする言い伝えがあるという。

左の写真は推古陵からの眺望。すぐ近くにあります。




石室の中も覗けます。


                                          二子塚古墳から推古陵を望む!

自分的にはこの二子塚は天皇陵には少し規模が小さ過ぎるのではないかと思います。かの推古帝からするとちょっと貧弱な感じを受けましたが…。

さぁいよいよ大化の改新(乙巳の変)が近づいてきましたよ!