文武天皇夫人 聖武天皇生母 贈太皇太后 藤原宮子 佐保山西陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
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ペナントレース中は甲子園球場に出没しています!
奈良まほろば検定 奈良通1級合格。

【平成27年7月26日(日)参拝】

今日は一気に5陵廻ります。
まず最初は文武天皇夫人「藤原宮子」の陵。

文武天皇夫人で聖武天皇生母、藤原宮子の佐保山西陵は、もともと黒髪山の西に位置していましたが奈良ドリームランドの開発により破壊されたようです…。

皮肉にもその奈良ドリームランドも2006年に閉園…。

                                           遊具もそのままのようです…。

現在は「黒髪山」に佐保山西陵の痕跡があります。

場所は奈良市奈良阪町で佐保ゴルフ倶楽部(練習場)のすぐ南側にあり東隣には黒髪山稲荷神社があります。 






右隣にある「黒髪山稲荷神社」


文武皇后藤原宮子姫(不比等女)の御陵なり、延喜式に列す。聖武陵の西北 大黒芝と称する地蓋其火葬所にして又山陵ならん。〔陵墓一隅抄〕今稲荷山とも呼び、七疋狐又犬石と呼ぶ、隼人像石四個陵上に置かる、雍良峰陵の条を参考すべし。那富山墓は聖武天皇の皇子基親王の葬所とす、近く南陵の西北に在り。(陵墓一隅抄)按に那富山は奈保山直山に同じ、即元明元正と其陵号を一にす、古へより佐保山奈保山又椎山は差別なかりしにや、不審。 椎岡墓は藤原不比等の墓なり延喜式に見ゆ。眉間寺の西に在り佐保山西陵と相并ぶ、〔陵墓一隅抄京華要誌〕椎は楢と同訓なり。隅山墓は藤原房前の墓にて、今杉山と号し老松三株雑樹茂生す、椎岡同所なり、隅山墓類聚国史に見ゆ。〔県名勝志〕

藤原宮子(ふじわら の みやこ、生年不詳 - 天平勝宝6年7月19日(754年8月11日))は藤原不比等の長女。母は賀茂比売。文武天皇夫人。異母妹で聖武天皇の皇后光明皇后とは、義理の親子関係に当たる。

文武天皇元年(697年)8月、持統天皇の譲位により即位直後の文武天皇夫人となる(『続日本紀』)。宮子が文武夫人となった背景には、持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている阿閉皇女(元明天皇)付き女官の県犬養三千代の存在があったと考えられており、それまで少壮官僚であった不比等は文武即位に伴い中央政界に台頭している。
大宝元年(701年)、首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を出産したものの心的障害に陥り、その後は長く皇子に会う事はなかった。文武や父不比等等肉親の死を経て、723年に従二位に叙され、首皇子が即位した翌724年には正一位、大御祖(文書では皇太夫人)の称号を受けたが病は癒えず、737年にやっと平癒、息子天皇と36年ぶりに対面した。そして、孫阿倍内親王が即位(孝謙天皇)した749年には太皇太后の称号を受け、754年に崩御した。享年70前後と推定される。
長く苦しむ事となる病気にかかりながらも、跡継ぎを生み、天皇の后としての最低限の役割は果たした宮子であったが、その跡継ぎ聖武天皇には安積親王薨去後はついに男子の跡継ぎが生まれず、一族藤原氏と他氏貴族との権力闘争などもあいまって、崩御後20年も経たないうちに天武皇統は事実上断絶してしまう事となった。(参考文献:ウィキ抜粋)

この後は、元明、元正陵へ