今回の参詣は、豊島区雑司ヶ谷鬼子母神堂にある武芳稲荷神社へ。

ここは都電荒川線「鬼子母神駅」から北に200メートルほどのところ。「雑司が谷」という地名は、これから参拝する鬼子母神堂を有する法明寺の雑司料に因み、蔵主ヶ谷、僧司ヶ谷などとも書かれ、徳川吉宗の時代に雑司ヶ谷に定まったといいます。

 

 

 

欅並木

駅を降りてすぐ、鬼子母神堂表参道には樹齢400年を超える欅並木があります。この欅を植えたのが、南北朝時代に京都から移り住んできた柳下若狭、長島内匠、戸張次左衛門といった住人で、彼らが「雑色職(下級官人)」であったことから地名になった説もあります。どうも白金長者と呼ばれ大量の白銀を蓄えた柳下上総は、この若狭の兄のよう。

そして今でこそ何にもない住宅街と化した参道ですが、昔は料亭が10軒ほど立ち並び、文人墨客が酒宴を楽しんだそうです。

 

 

 

雑司ヶ谷鬼子母神堂は、ここより北側500メートルほどのところにある、弘仁元年(810)に創建したという法明寺の飛び地。

法明寺は元真言宗の寺院で、当初は威光寺といいました。正和元年(1312)に日蓮と宗論を争って帰依して法明寺となります。ちなみに空海が真言密教を広めたのが806年だから、驚異的なスピードで真言宗が関東に伝播したことになる。また高野山を開いたのが816年なので、師匠より行動力があったようだ。

 

 

 

由来

永禄四年(1561)に弦巻川で鬼子母神の霊像が出土したといい、天正六年(1578)に稲荷の森にお堂を建てて祀ったのが、この鬼子母神堂です。

東京の江戸時代以前の歴史というと、時代と時代の間が虫食いのように欠落しているというか、鮮明な記録が残ってなく漠然としているところがありますが、こうして神社仏閣の歴史を紐解いていくと、なかなか希れな時代背景が姿を見せてくれます。

 

 

 

上川口屋

1781年創業の上川口屋が境内に出店していて、境内のど真ん中に店があることに珍しさを感じます。よくよく考えると浅草の仲見世も雷門の内側だし、最近は境内の中にカフェを併設する神社仏閣が多いので特異というほどでもないのかも。

ちなみに明治時代には「川口屋」が堂の周辺に4店舗ほどあって、上川口屋は唯一現存し、今では都内最古の駄菓子屋となっています。創業から240年目、現在の店主は13代目だとか。

ちなみに江戸名所図会では、川口屋の飴がこの地の名産としています。

 

 

 

絵馬は鬼子母神に因んで柘榴の絵馬。

現在の社殿は寛文四年(1664)に浅野家の寄進によって造られたもの。都内に現存する宗教施設の建築物では、室町時代に建てられた碑文谷円融寺の釈迦堂、徳川家光が慶安二年(1649)に寄進した浅草神社の社殿、上野東照宮の慶安四年などがあり、古い建築物の残っていなさそうな東京であっても、大火事や戊辰戦争・廃仏毀釈・神社整理・関東大震災・東京空襲・高度経済成長を乗り越え、まあまあ良く残っている。

 

 

 

武芳稲荷堂 たけよしいなり

弘治年間(1555-1558)の創建。鬼子母神堂が建立された時からすでに鎮座されていたことから、この地の地主神だったのでしょう。

また徳川吉宗が御成りの時は、当社へ寄ってから鬼子母神へ立ち寄られたといいます。吉宗が参拝した事が確実なのは、当鬼子母神と北砂亀高神社島根鷲神社亀有の恵明寺(亀有香取神社の旧別当)ぐらいかな。

 

 

 

御由緒

境内掲示より字体改行などそのまま記載

武芳稲荷大尊天縁起

 武芳稲荷堂は倉稲魂命(ウケノミタマノミコト)

を祀った堂宇です。

 「日本書記」では「ウケ」は穀物・食物を

意味し、倉稲魂命は「穀物に神」といわれてい

ます。昔、このあたりで農耕が盛んに行われて

いたことが伺えます。

 創建の年代は不明ですが、雑司ヶ谷鬼子母神縁起

によれば、天正六年(一五七八)に「稲荷の森」と

呼ばれていた当地に堂宇を建立して鬼子母神像を

安置したと記されていますので、武芳稲荷堂は

これよりも以前に建立され、天正六年当時は

既にこの地の地主神として多くの人々に

知られていました。

もとは一坪にも満たない木造の堂宇でしたが、

昭和四十二年に現在の堂が建立され、

昭和四十六年には、鳥居二十五基、昭和四十九年

には、正面に神狐像二体が奉納されました。

 武芳稲荷尊天は、また古来より「出世稲荷」

とも称され、商売繁盛・開運隆昌とともに

その霊験あらたかなることを慕う大勢の信徒に

尊崇されています。毎年、節分後の午の日に

初午大祭・五月十八日に夏季大祭・九月十八日

には秋季大祭がそれぞれ修され、皆様の

開運出世、除厄得幸の祈願が行われています。

平成二十七年二月初午之砌 武芳稲荷講

 

 

 

大銀杏

武芳稲荷の境内にある大銀杏は、高さ33m、周囲11mもあり、東京都指定天然記念物。麻布山善福寺の大銀杏(樹齢750年)に次ぐ樹齢700年といわれ、江戸時代から子宝のご利益があるとして子授け銀杏の異名があります。新編武蔵風土記稿には楠木正成が二樹を植え、その内のひとつが残ったとあります。

 

 

 

大黒堂

なぜか境内右側の小さな食堂の中に祀られています。お正月の七福神めぐりの時だけ扉が開かれ、参拝できますが、お客さんがいると何とも撮りづらい。

 

また当鬼子母神はお百度参り発祥地であると江戸名所図会で紹介されています。

お百度参りは、社前とお百度石を100回往復する願掛け法。十羅刹女を始め鬼子母神の千人の御子を願い奉ることを意図して、十と千の間を取ってお百度詣りになったそうです。

 

 

 

 

写真は、2016.11.26(大黒妙見以外)、2017.1.15(大黒天・妙見堂)

 

備考

社号 芳武稲荷

創建 天正六年(1578)以前又は弘治年間(1555-1558)

祭神 倉稲魂命

祭日 2月初午大祭 5月18日夏季大祭 9月18日秋季大祭

末社

社務所 

所在地 東京都豊島区雑司が谷3−15−20

その他 雑司ヶ谷鬼子母神堂境内