今回の参詣は、足立区谷在家の赤城神社へ。

ここは日暮里舎人ライナー谷在家(やざいけ)駅の南側500m程のところ。

「在家」は集落を表す荘園制の名残として関東に多い地名らしく、近隣では西新井の旧地名として袋在家、油在家という地名もあった。仏教の在家とはあまり関係がない。

 

 

 

 

御由緒に依れば当社の創建は、200数十年前、浅賀藤九郎源政家なる人物が戦に敗れて当地に土着し、その屋敷神として祀られたのがはじまり。

当社の西南にある日蓮宗本応寺の御由緒にも、開基に浅賀藤九郎の名が見られる。

 

 

 

境内はとても広い。

北に本社殿、向かって左隣に社務所、西の端に境内社が一社ある。

当社にはかつて年番の制度があり、当番に当たると祭礼前には社殿に泊まり込んだり、また戦後数年までは毎年1月25日の御毘沙祭に、この地に嫁いできたお嫁さんにその時の着物で集まってもらい、山盛りのご飯を食させるという慣習があったのだそう。

 

 

 

手水舎

「平成元年九月吉日 奉賛会」と刻まれている。

 

 

 

 

狛犬

右が阿形で鞠を抱え、左が吽形で子抱き。

臥せった子供の勇み立つ表情が良い。

 

 

 

 

御由緒

境内掲示より字体改行などそのまま記載

 赤城神社の由来

 赤城神社は、盤筒男命 赤城姫命の二柱の神を主祭神

として奉斉し、現在の鎮守赤城神社は浅賀藤九郎源政家

が戦に敗れ居城を放棄し、一族郎党数十名と共に武蔵国

南足立郡谷在家村に落ちしのび土着し屋敷内に上州大洞

赤城大社の神体の一部を奉持来り、社殿を新設し一族の

守護神とす。

 群馬県勢多郡富士見村より家敷内に御分神した年号は

明らかでないが、浅香家に伝わる古文書によると、宝永

年中(一七〇四~一七一〇年)今より二八五年前赤城

明神社地境内附田地壱反五畝四歩を一郷の守護神として

村中に寄進、村中連判を以て御代官様にお願いし御検地

となり、村中相続一郷谷在家村の郷社となる。又明神地

面壱反五畝四歩の処村中相続を以て米八斗五升と相定め

御祭料として年々村方当番玄米八斗五升を受渡すと記し

あり、時に寛延三年九月今より二三九年前の事である。

これが昭和の代まで続く昆沙祭であろう。

 又足立区史によれば御分神創建は「安永年間」喜平次

「藤九郎直系子孫」というものの家敷神であったものを

村有にしたと伝えられ祭礼は九月二十五日とある。

 今度の造営に際し、旧社殿を解体したところ棟木に三

箇の板碑発見する。それによると、

(1)文化十五年寅正月二十五日

 石橋敷石供羪 世話人                    ※羪は半へんに艮、「供養」と読むか。

(2)文久四甲子歳二月大吉辰 棟梁浅香庄治郎

 又明治十二年己卯九月建築とあり、幾星霜に耐えかね

右記年代に改築した模様である。

 大東亜戦争後 宗教法人設立について氏子二十八名が

御神田を整理労力を出し合って境内地として現在に至る。

 世界平和、国家安穏、氏子信徒の無病息災、福徳円満

を謹んで祈願し今回の改築を記念し、由来を石碑に刻ん

で後世に伝える。

 平成元年九月吉日

 赤城神社奉賛会

 

 

浅賀氏

浅賀(浅香)氏は、赤城明神を信仰し、居城と思われる「群馬県勢多郡富士見村(現:前橋市富士見町)」は赤城山の麓であることから、厩橋(前橋)城や大胡城主の大胡氏の家臣だろうと思われる。

この大胡氏が上州長野氏に攻められ厩橋城を離れ、後北条氏に招かれ牛込城(現:新宿区袋町)となり、神楽坂の赤城神社の創建にも関わっている。牛込にほど近い榎町に創建した日蓮宗大法寺(現:杉並区松ノ木)の開基が旗本・浅香伝右衛門良直というのもその関係を思わせる。

 

ちなみに当足立区には浅香姓が多く、浅香運輸・浅香園芸・浅香マンション・浅香コーポ・ロイヤルハイツ浅香と、数件あった個人宅を除いても、散歩中にこれだけ目に付いた。

 

 

 


境内社

境内の西側にある。

 

 

 

 

社号標は無く、また中をのぞいても何を祀っているのかわからなかった。

 

 

 

写真はすべて2018.8.19 撮影

 

備考

社号 赤城神社

祭神 磐筒男命・赤城姫命

創建 約200数十年前

祭日

末社

社務所

所在地 東京都足立区谷在家2丁目16−17

その他 江北氷川神社の兼務社