今回の参詣は、世田谷区奥沢の奥沢神社へ。

当社は、東急目黒線奥沢駅より北へ200mほどの自由通り沿い。そういえば、ここ最近の奥沢はコーヒーショップの開店が多い。サードウェーブは清澄白河、蔵前、そして奥沢が熱い(ぽい)。

ここよりさらに400m北西には、自由が丘駅で合流する東急東横線と東急大井町線が通り、奥沢神社はその三線に取り囲まれた島の中に鎮座しているようにも見え、鉄道がやけに入り組んでいるこのあたりは、きっと東京郊外の開発のために昭和初期に鉄道の敷設合戦でもあったのだろうと思えてくる。

 

 

 

奥沢神社 おくさわじんじゃ

ここより西へ1kmほどにある九品仏浄真寺には、室町時代にこの辺りを統治した武蔵吉良氏の家臣の城があり、当社はその城の守護として創建された八幡宮だった。また世田谷区は「沢」のつく地名が七つと多く、また吉良氏が造立した八幡社が八社あったことから「世田谷七沢八八幡」と称され、実際にその数だけ沢と八幡があったんだとか。

 

 

 

 

大蛇

鳥居の注連縄を、蛇に見立てているっぽい神社は時々見受けられるけど、当社のはわかりやすく大蛇。

これは例大祭の時に大蛇お練り神事というのがあって、大蛇を乗せた神輿が巡航し、一体は鳥居に、もう一体は社殿に奉納される。

この神事(例大祭)は、江戸時代中期に疫病が蔓延した時、名主の夢枕に八幡神が現れ、”藁で大蛇を造り、村人が担いで村内を巡業させよ”と託宣があり、巡行させたところほどなく治まり、以降毎年斎行されている。

 

 

 

狛犬

右が阿形で左が吽形。

以前東玉川神社御穂鹿嶋神社の回で、狛犬の特徴として珍しいと触れた、耳の形状(立ってるのと寝てる)や、腕の手根球の有無が、当社の狛犬にも表現されていた。今までよく見てこなかっただけなのかな。。

 

両狛犬台座部の御由緒

開発三百年記念誌

世田谷七沢一つ奥沢の地は もと菅刈庄に属し 南北朝のころ吉良治家の所領

となり ここに奥沢城を置いた 天正十八年 吉良氏は小田原北条氏と運命を共

にしたが やがて江戸幕府の天領となり その後は旗本渡辺氏の知行所 髙は五

十五石と記されている奥沢村の大部分未開の原野は 寛文二年より近郷農民

の開拓により 同九年独立して奥沢新田村と命名され関東郡代の支配に属し髙四

百七石の地となつた かくて文化文政のころ奥沢村は家数二十一軒 奥沢新田村

は百六軒を数えた

明治維新を迎えた奥沢の地は 明治四年東京府に入り同二十一年荏原郡玉川村の

大字となり 昭和七年東京市と合併した さて昭和三年 時運にともない住宅地

に転換せんと 地元の尽力により区画整理を敢行 整然たる道路を縦横に開き

かつての農村はその面目を一新して ついに今日の繁栄を見るに至つた

今年あたかも開発三百年を迎えるに当り ここに記念事業として狛犬ならびに石

燈籠を神前に献納し もつて神恩にこたえ奉り わが郷土の弥栄を祈願する

昭和三十七年壬寅十月吉日

 氏子中

 

 

 

手水舎

 

 

 

L字型に折れた参道を進むと社殿が見面に広がる。

境内はほぼ森。

 

 

 

御由緒

境内掲示より字体改行などそのまま記載 (現在この掲示は無い)

奥澤神社

祭神誉田別命宇賀魂命

世田谷城主吉良氏の家臣、大平氏が奥

沢城を築くにあたり守護神として勧請

したと伝えられる。

例祭の九月十四日・十五日に、江戸中期

より伝えられている「厄除の大蛇」の特

殊神事が行われ、境内の「八幡小学校

発祥之地」の碑は、かつて八幡小学校々

舎があったからである。

社殿は昭和四十五年に完成し、尾州檜

材を用い、室町期の様式を採用したもの

で、都内においても他に類を見ない。

 昭和五十四年三月

 世田谷区教育委員会

 

 

 

神楽鈴

当社は坪鈴は無く、代わりに神楽鈴が賽銭箱の上に置かれている。都内では珍しい。

 

 

 

当社の祭神は「誉田別命」「宇賀魂命」の二神をお祀りしているのだけど、社殿は三神殿にみえる。一座二神なのか二座二神なのか、それ以上なのか。

拝殿には先ほどの大蛇のもう一体が置かれている。

 

 

 

べんてん道

本社社殿の左側奥に祀られる弁財天社へ続く参道。

 

 

 

奥沢弁財天

当社の弁天には神池は無く、岩屋が築かれその中に祀られている。

 

 

 

弁財天女御社地

弁才天女と刻まれた石祠。左隣には「弁財天女御社地」と刻まれた石柱がある。

かまくらの様に岩を積んである。元々は商店街あたりの湧水地にあったものが、当社に移されたもの。弁天の旧地は不明らしい。

 

 

 

手水鉢

 

 

 

地蔵と庚申塔

岩屋の手前と社務所の間にある。

 

 

 

地蔵坐像。子育て地蔵ともいわれているそうだけど、案内などは無い。

台座部に「享保廿天乙卯 奉納地藏尊廿講中 十一月二十四日」とある。

西暦は1735年、このころは江戸時代中期で徳川吉宗の時代。浄瑠璃作者の近松門左衛門や大商人の紀伊国屋文左衛門、朱子学者の新井白石ら、江戸中期の文化的な醸成に寄与した人物が、とくに活躍していた時代。

 

 

 

庚申塔

中央は「南無妙法蓮華経」のお題目。中国の吉祥絵文字っぽく、ちょっとかわいらしい感じ。

右のは六臂の青面金剛と踏みつけられた三尸(さんし/人間の体内に宿るといわれる三体の虫)と、その下に「見ざる・聞かざる・言わざる」が彫られている。

左は六臂の青面金剛、その頭上に蛇が巻き付いている。下部は右の庚申塔と同じく「見ざる聞かざる言わざる」。こちらには奉納年号が刻まれ「享保三戊戌年八月吉日」とある。

 

 

 

森のように草木に溢れているけど、よく日が当たって木々も綺麗。

 

 

 

写真はすべて、2017.12.3 撮影

 

備考

社号 奥沢神社 おくさわじんじゃ

祭神 誉田別命 宇賀魂命

創建 室町時代

祭日 9月第二土日

末社 弁財天社

社務所 御朱印御守神札授与有

所在地 東京都世田谷区奥沢5-29-11

その他