今回の参詣は、品川神社の境内遺構



第百六十回その1 品川神社 →こちら
第百六十回その2 品川神社 境内遺構 →今回
第百六十回その3 品川神社 例大祭 →次回


以上、3回に分けて掲載します。




御本殿と末社阿那稲荷神社についてはこちら





先ずは御本殿右側にある祖霊社
弾丸というか砲弾の形をした「忠魂碑」には、希典書とある。ほぼ都内のどこの神社でも、鎮魂碑には乃木将軍の銘が入っている。



祖霊碑御由緒 境内設置の石碑より字体改行などそのまま記載


この忠魂碑は明治四十三年四月に品川町
在郷軍人会が日清・日露戦争の戦没者
慰霊のため乃木希典大将の揮毫に
よりtぴ時の東海小学校校内に建立されました
其の後昭和七年九月に権現山公園(現
城南中学校々舎前)に移し日支事変・
大東亜洗脳の戦没者をも加えて慰霊
を行ってまいりました
昭和二十年終戦後占領軍の命令により
撤去させられましたが北品川三丁目田島卯之吉氏
が引き取られ千葉県南行徳の源心寺に
移され慰霊を行ってまいりました
この度源心寺及び田島孝作氏のご厚意
により終戦五十周年記念事業として
品川神社に引き取らせて頂き戦没者の
追悼慰霊祭を執り行い平和の尊さを
後世に伝えて行きたいと存じます
 平成七年七月十五日
  宮司小泉和夫識







忠魂碑の右側には神楽殿。
こちらの神楽殿では、お正月と例大祭の時にお囃子を興じるのみ。それとは別に、品川神社には東京都指定無形民俗文化財の「太太神楽(だいだいかぐら)」というものがあり、こちらは元日と春祭と例大祭と新嘗祭の、年四回本殿内にて奉納される。





境内中程にあるのは御嶽神社




三笠山講という講社がかつてあったようで、こちらの手水はその講社が奉納したもの。三笠山といえば、奈良県の三笠山が有名。同じ山岳信仰者として崇敬していたのだろうか。




山自体は2mもないくらいだが、中腹にいくつも石碑が立つ。



御嶽神社の三神 覚明霊神 普寛●神 一心霊神 二品熾仁書


前二神が御嶽山開山に尽力した覚明行者と普寛行者。一心は信仰を広めた人とも。
よく見ると、自体がそれぞれ異なる。書いた時期が異なるものを三つ合わせたのか。書は熾仁親王らしいが奉納者は三笠山元講。


中央のは山岡鐵太郎の書。八海山●●●大神、御嶽山●●●●●大神、三笠山●●●大神とある。●は読めず。


奥のは、品川三笠山講の講員碑。




小さく大江神社という碑もある。関係は不明。
足下の岩盤はかなり立派なもの。明治時代前後の重機のない時代に、天王山(御殿山)の山頂にこれだけ大きな石碑や岩盤を奉納する人たちがいたことがすごい。信仰心だけでここまで突き動かせるものなのだろうか。





御嶽社の狛犬




御嶽神社のお社。




御嶽神社の麓にあるのは、参拝記念碑か。正面は天地開闢大日本大社廻、右側面は神社仏閣四國四拜、左側面は西國三廻秩父阪東弐回訪拜、背面は明治二十六年七月建之 品川北濱 中教正金崎彦兵衛時年六十七 金子定吉時年六十八。




他には、一の鳥居脇に東海七福神めぐり発祥の碑が二つ。七福神の像が刻まれている方が昭和二十六年、もう一つが創設五十周年記念。







先の写真が「恩賜養老杯碑」、後が祝八名勝入選碑と江戸消防記念日の二つ。

 建立の趣旨
此の碑は中央に位置す
る心棒を昭和七年に当
品川神社が東京八名勝の
第三位に入選した記念に
吾々の先人が時の協賛者
と共に建立したもので
丁度六十周年の節目を
期に常夜灯と記念碑を
建立し品川神社の敬神
の昴揚と境内の景観に
粋を添え先人の鎮魂の
意も含め更に社会に役
立つ心の地形をなし人
の和を基本としながら
江戸町火消の永い歴史
によって培われた伝統
文化の灯を消す事な
く之を後世に伝承せ
んとするものである。
 平成三年十一月吉日







あとは包丁塚が二つ。


包丁塚の御由緒 境内掲示より字体改行などそのまま記載


包丁塚の由来
抑もここ品川の地は 往昔より江戸出入
の要宿にして 近代となりてその地域広
大となるも、まことに殷賑をきわめ、ゆ
えに調理をなりはいとする店多く、また
それらに使用されし包丁数知れぬなり。
このたび品川区鮨商組合連合会発足二十
五周年を記念し、ここ縁りの地品川神社の
神域に包丁塚を建立、調理に役し、使い
古されし数多包丁を納め、とわにその労
を謝すと共に、同じくそれら包丁により
調理されし鳥獣魚介の類、はた又蔬菜等
を慰霊し、併せて業界の発展を期し、と
こしえに連合会の隆昌を願うものなり。
 昭和五十一年四月二十七日
  品川区鮨商環衛組合連合会
   会長 永原 德






そして上記石碑群から見て境内反対側には、わずかばかりの公園も。







最後は品川区の有形文化財で、当社名物の品川富士塚
登山口は品川神社正面階段の中腹と、階段頂上から浅間社の裏を回った側の二ヶ所。前者が一合目から登山できるのに対して、後者は五合目からの登山口というよくできた造り。






登山口前(すでに一合目)には「足神様 猿田彦神」のお社と、





3歩進んで2合目にあるのは、役小角とゆかいな鬼たち。
手前に取り付けられた柵のせいで幽閉されてるっぽいけど、役小角はめっちゃ笑顔。さすが伝説の修験道開祖、神変大菩薩。並の心持ちではないのだろう。





さて、そのままちょっと登ればもう五合目。五合目から六合目までは平らなスロープ状。ここで軽く一息。





さあ、ここから山頂までちょっと急勾配で狭く険しい山道が続く。本物の富士登山とは違い、落っこちないためのバランス感覚がちょっとだけ必要。


ところでこの七合目の人丸大明神碑だが、これは人丸神社(現柿本神社)のことで、柿本人麻呂朝臣を祀る神社のこと。富士塚との関連は不明。






そして富士頂上へ登り切ると、この景色。なかなか悪くない。京浜急行も見渡せ、いい景色。
江戸時代の建物が高くない時代は、ここから東海道や、その先に江戸湾、天気が良ければ房総半島も見渡せたことだろう。





明治以前は、第一京浜のあたりに富士塚があったそうで、道路拡張に伴い現在地へ移動したという。
ということは、この高さからは今だからこそ見られる景色。また、現代ではマンションの高層階と同じ程度の高さだけど、この富士塚からなら、同じ景色でもどこか有り難みを感じられる。






もう一方の登山道から下山して、ぐるっと回るとあるのが、芳葉岡冨士浅間神社







富士塚御由緒 境内掲示より字体改行などそのまま記載


品川区指定有形民俗文化財


 品川神社富士塚


   所在 品川区北品川三丁目七番十五号 品川神社内
   指定 昭和五十三年十一月二十二日(民俗第一号)

 富士塚は、富士信仰の集団、富士講の人々が、富士
山の遥拝場所として、あるいは実際に富士山への登山
ができない講員のために造った築山である。
 品川神社の富士塚は、明治二年(一八六九)、北品川
宿の丸嘉講社の講中三百人によって造られた。神仏分離
政策で一時破壊されたが、明治五年に再築し、大正十一年
(一九二二)第一京浜国道建設の時現在地に移築された。
 江戸後期に盛んだった民間信仰を知る上で、たいせ
つな文化財である。


品川区指定無形民俗文化財
 品川神社富士塚山開き
  実施団体 品川丸嘉講社
  指定 昭和六十一年三月十四日(風俗慣習第一号)
 毎年七月一日に近い日曜日に、講員一同が白装束で
浅間神社神前で「拝み」を行う。
 その後、はだしで富士塚に登り、山頂の遥拝所や小
御嶽の祠でも「拝み」をして下山し、社殿にもどってか
ら平服に着替える。
 かつては盛んだった行事であるが、現在も行ってい
る富士講はたいへん少ない。

 平成二十三年三月三十一日
  品川区教育委員会








浅間神社の狛犬。
獅子の足元が雲になっていて、さらに土台には富士山が彫られている。
まるで、富士にかかる雲の上に獅子がいて護っているかのよう。






浅間社の左側には交通旅行安全守護のぶじかえる像。ちょっとしたヌシのよう。デカイけどなかなか顔はかわいい。




品川神社の境内遺構は以上。次回は当社例大祭の「天王祭」。