台風一過ですね。
モラハラ克服カウンセラーの吉居光子です。
久しぶりに子供たちと一緒にテレビを見ていて、お茶の間がざわつきました。
マルトリートメント
子どもに対しての不適切な態応。
我が家の子どもたちに、「わーめっちゃ脳が変形してるわーっ」て言われました。
親の目の前でそれ言えてるだけ、変形なんてしてないわ!
まったく
私も少し前まで親から虐待されて育ったなんて言ってた身ですので、大きなことを言いづらい気はしますが。
思考の現実化、トラウマ、モラハラのメカニズムを勉強した身としては、これは話題にしておきたい。
これは、子どもへのモラハラに注意しましょうってことですね。
DVはもってのほかですが、日常的なモラハラについてですね。
現在、虐待をうけている子どもについては、しかるべき保護やケアをすべきだと思いますし、虐待してしまっている大人はどうか自分の心と向き合う方法を探して、機会を作ってほしいと思います。
今日は、少し前の私と同様に、子ども時代に不適切に扱われたと感じている大人、子どもを不適切に扱っていないかと心配している人に届きますようにとつづります。
まず初めに。
モラハラは支配です。と同時に依存でもあります。相補性から言ってもこの二つは切っても切れない仲なのです。
私たちは生まれる前から思考しているのです。
宇宙のビッグバンと同じです。
思考は、量がたまると現実化します。
今現在の、自分の「自己肯定感の低さ」や「不満足」「幸福感の無さ」「無力感」「後回し癖」は、あくまでも自分の思考が引き寄せたものです。
それを、いつまでも親の育て方や過去の環境のせいにしていては、その苦しみは解決しないのです。
その原因が自分の思考が引き寄せているのだと考える(仮説を立ててみるでも良いです)ところまで考えられないと、現在や未来を思うような幸せに変えていけないのです。
一度、それをいつまでも訴える事によって、自分にどんなメリットがあるのかを考えてみるんです。
親が未熟だったから?
子供を産んだからには、大人には育てる義務と責任があります。
適切に育てる環境を育み、教育と養育の内容や質も気になります。
親は、生まれたばかり頃は、ただただ、子どもに幸せに健康に育ってほしいと願うものです。
ところが。
特に初めての子育ては、とにかく初めてだから実質的にいろいろたいへん。
最初の数ヶ月、母親はかなりの時間と自由を奪われて子育てにかかりきりになります。
動くようになり、歩くようになり、後追い、探検が始まり、イヤだというようになる。
何もかも思い通りになどなりませんし、別の人格なのですから、尊重もしたいし、葛藤しながら育てます。
子育ては、人生の大仕事なのです。
教育が始まると集団行動の練習です。ここでも、親の習慣が影響するのは当然です。
育て方には、各家庭で定義がさまざまにあると思います。
そこで、悩み葛藤して自分たちらしい生き方、やり方、考える能力が養われるのです。
それこそが、人生の醍醐味。
誰にも褒めてもらわなくていいし、正解なんて外にはない。
自分が自分らしく成長出来てると認められればいい。
私は私で在る者。
それだけで良いはずなのに。
褒め方叱り方までマニュアル化したり、脳が変形するとか病気になるとか恐怖を煽られて、それに乗ってしまうのは、
自分のトラウマが疼いているのだと思います。
本当は親にこう育ててほしかった。
なぜあの時、あんなこと言ったんだろう?したんだろう?
親も未熟だった。親の親もいろいろあったみたいだし、我が家系は悲惨だから
と思っていませんか?
前の日のランチになに食べたかも忘れてるのに、繰り返し親への恨み節は思い出しませんか?
その記憶、本当に正しいですか?
子育てに親のトラウマを見る
私たち人間は成長する生物です。
子育ての最終目的は、子どもが自分で考えて自分で行動できるようになること、なのではないでしょうか?
野生の動物も同じです。
自分で自分の衣食住を確保すること。
こうしたら子どもの脳が変形して育つのではないかと、ビクビクして、葛藤もぜず、マニュアル化した思考で、親の感情も出さず、上下関係、家庭運営の苦労も分からず育てては、子どもの依存的なワガママ脳を増長させてしまうばかりです。
親の心の根底にある「コントロールしようとする気持ち(支配的感覚)」が、見透かされるばかりです。
支配は、依存を生みます。
人は、人との関わりで成長していきます。自分の個性を発揮させたい気持ちは、誰もが持っている欲求です。
それが極端に利己的に作用してしまうと調和が乱れがちです。
過度に頑張って承認を得ようとしたり、人と争ったり、満足できないと反社会的になったりして、力や権力を誇示しようとします。
逆に、病気になって、まるで自分が無力で弱者になったような気分になって、無意識に反抗して自分の人生の課題を回避します。
家庭や社会で「自分は弱者で、被害をこうむった」と思うことによって、社会や親を「加害者=悪者」だと、とらえるようになるのです。
「被害者」でい続けるためには、加害者(=悪者)が必要になります。
「加害者がいる」環境では、常に被害に合わないように、自分の身を守るための対策や方法が必要になります。
それは安心して成長できる環境ではありませんね?
成長しないこと自体が目的だとしたら?
もしも、そもそも成長したくない、怠けて楽をして、身近な誰かに自分を世話させて生きていたい(表向きは被害にあった、依存している支配者になりたい)と思っていたとしたら?
あえて成長しなくて済むように、被害者になることを選択することもできるのです。
全ては無意識です。
私たちは思考して現実を創っています。
純粋な甘えたい。愛されたい。これが欲しい。あれがしたい。がねじれて、膨らんでそうなった。
現代では、学問の分野でも、人間の思考が見ているものを創っているということが、明らかな時代です。
今の、「私」が過去にそう思ったことが、「今」目の前にあるのです。
こうしてくれないなら、あーしてやる!と、拗ねたんです。
本当にその不適切なケアがあったのか。加害者が「いた」と思うなら、「いた」でしょう。
被害者は「いなかった」と思うなら「いなくなる」のです。
思考は現実化します。
被害者でい続けますか?
依存する支配者でい続けますか?
どんな目的で、生きていきますか?
本当の望みに、純粋なエネルギーを120%注ぐことで、誰かや何かのせいにしなくても生きていけるのです。
答えは自分が知っています。
何を本当は望んでいましたか?