秋の長雨な上に、昨日の台風で、いまだに5人家族の大洗濯物と格闘しております。モラハラ克服フラクタル心理カウンセラー(2019~)の吉居光子です。
日照りも困りますし、長雨も困りますし、何にしても行き過ぎ、過剰はトラブルの元ですね。
常に自分の適量、塩梅、加減、バランス、ゼロポイント、を観測して目指していきたいものです。
2024年追記:近年では職場でもモラルハラスメントやパワーハラスメントなど、人間関係においてデリケートな判断をする専門的な人員が配置されるなど、コミュニケーションについて幅広く模索する世の中になりましたね。ここでは、他人に気を使いすぎて困っている人の傾向について深層心理の観点から問題解決への糸口として、いくつかのヒントを提案しています。
個人の問題はさまざまですので、人間関係にお悩みの方は個別に相談にお越しください。
対人関係で、相手の気持ちを汲んで行動するというのは、「気を利かせる」ということで、日本人には文化と言っていいほどの当たり前の行為になっているかもしれません。
「思いやり」や「おもてなし」「サービス」には、この「相手をおもんばかる心」「気遣い」「察する」「空気を読む」という気持ちがないと成立しません。
そして、私たち日本人はこの行為をとても大切にしてきましたし、当たり前に伝承していて、とっても良いことだと思う傾向にあります。むしろこれをしない人は困った人という認識にまでなっていたと思います。
だから、KYなどという言葉が、小学生の人間関係にまで使われることになった時期もありました。
外国に住むセラピスト仲間に言わせると、外国人の文化では、相手の意思を察して行動するなどというのは「ありえない」そうですよ。驚きますね。
2024年 追記:最近はこの「配慮の国」日本のそういった部分をリスペクトしてくれる傾向も出てきましたね。
気持ちを察する事が当たり前の環境では、KYなんて言われたらイヤなので、なにを発言するにもとても気を使いますね。
普段のコミュニティでも、この発言は、そういわれないか?相手の発言はKYか?といちいち考えて警戒したりジャッジしないと発言できなくなってしまったとおもうんです。
人が言うあいつはKYだなどと、見下したりする発言が怖くなったり、腹立たしかったり。わざわざ対人関係のハードルを上げるような。
正直みんな気分悪かったんでしょうね。TVでのお笑い的な流行が去ったというのもあるのかもしれませんが、KYという言葉が消えましたね。
テレパスでもないのに、空気なんて読めないし、ある程度分かっても個人差があるので、そんなコミュニケーションはとっても疲れます。
「鈍感力」という書籍もありますね。
良い事だという認識のものが、分量が過剰になってしまうと不便な行為になってしまったんですね。
でも、実は、これと同じことが、トラウマを抱えたり、モラハラを引き寄せるタイプの人に起こっているのです。
そもそもなんで、私たちは対人関係において、「相手をおもんばかる心」「気遣い」「察する」「空気を読む」ことを大切に思って、さらに、なかば強迫観念的にそうしなくてはいけないと思うのか。
これは、「良い事だ」「謙虚ぽくて」「慎ましやか」で「美しく気高い行為」という認識があるからなんです。私的にはリア王の末娘的なイメージ(?)
つまりは、「いい人」だと思われたい。
ですが、「察して」行動しているつもりなのに、相手に認めてもらったり喜んでもらえないと、気分が悪くなりますね?
で、もう察するのはやめようと思っても、ついついいつもやってしまっては、気分悪くなっていませんか
自然と沸き起こって察してする行為には、相手がどう受け取ろうと、気分悪く思わないのですから。
悩みの原因は ここです。
先に 自分が 人に 自分の 気持ちを 察して ほしい のです。
だから、手放せなくて悩みになってしまうんです。
ようするにお前このように私を気遣え!もてなせ!
って思いながら(無自覚に)行動しているってことです。
かわいがられて大切にされた人に多い深層意識です。
無意識なのでわからないです。
当たり前すぎて。
でも人はなんとなく分かるので、なにかすでに言われているはずです。
気を遣って(あとづけで学習した気を利かせたフリですが)喜んでもらえた経験。察して行動することで、認めてもらえた喜びは快感に似ています。
大きな成果を出したような気分になれます。
だからくりかえし中毒してやがてバーンアウト。やってらんないでもやめられないっ(だって誰だってそうしてもらったらうれしいでしょう?これは正しい行動でしょう?)てことになるんです。
介護の方や看護の方、人を世話する人がバーンアウトするのにも、こういう傾向があるからです。
繰り返し味わった経験なので、察すること(=相手から褒めてもらうことの場合もあります)が悪い事だなんて思いもしないのです。
そして、それが愛を表現する行為だと認識してしまうと。恋愛はうまくいかなくなるでしょう。
自分のことも察して行動してくれることを、近い相手にはむしろ強く求めるようになるからです。
私を愛しているなら、「察して行動してほしい」。
それはやがて、「愛していないから察してくれない」と。
サスペンスドラマみたいになってしまいましたが、けっこうあるあるですよー。
やってほしいことは言いましょう。
そして、一旦「察して行動・言動」するのを、一切やめてみる。結構難しいですが。
サプライズ好きは要注意です。誕生日とかクリスマス、記念日は例外かもしれませんが。
電車や公共の場で、マナーやエチケットを守らないのとは違いますよ。
極端にかたくなになるのは子どもですよね。(それはまた別の問題がありますね)
自分を認めさせるために、察して行動しない。
自分の価値を確認するために人を使わなくても、自分が自分を認められるようになれば良いんです。
愛とは互いの成長を促す関係性のこと。愛とは何かを考えて書き出してみるとよいですね。
何かをしてあげたいのは、自分がしてほしいから。
どんなにとっさにそれらをやってしまっていたかだんだん気づくと思います。
気持ちを汲んでほしい、察してほしいと思ったら、自分の肚の声を聴いてあげてくださいね。
いったい何をしてほしいのか。
なぜ言えないのか。
分量が過剰でなく、相手をコントロールしたいという思いが無ければ、とても素敵な行為なんですけれどね。
今年の悩み、今年のうちに~♪思考の整理整頓お手伝いします
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