【2016年2月26日19:46保存】


ブログ再開!!とか言いましたが、
痛み止めの話を聞いたので
ブチリます。



元々痛みに強い私。
入院中に"その痛み1〜10で表すと、どれくらいですか??"とよく聞かれますよね。
あれ、結構痛くても私はなかなか3〜4以上は出せません。
だって他の人からしたらマッサージ程度の痛みかもしれないもの。


それから、薬。
処方されたものを一生懸命飲むことが私自身にできる精一杯のことなのだと思っていました。



でも、昨日とある看護師さんに"提案なんだけど…"
と痛みと薬について考える機会をもらいました。


とにかく痛みを痛みと感じない私。
でもなんとなく気持ち悪いとか、なんとなく胃がムカムカするとか、なんとなく下半身がダルいとか。
そういうのは常にあるんです。

それをお見舞いに来た母にはボロボロこぼしてました。看護師さんにもこぼしてみたり。


その様子を見てた看護師さんからの提案でした。

今、薬を色々飲んでるでしょう?
あれ、なるべく減らしたいよね?
じゃあ、何のためになんの薬を飲んでるかもっと考えてみよう?


私はまさに処方された薬を決められた時間に飲んで過ごしてるだけでしたね。

看護師さんは、痛みやムカつき吐き気など、さまざまなことに対処する方法は知っている、でも実際にどういう痛みなのかは本人じゃないと分からない。
そこでうやく頭を使っていくことが大事なんだなって改めて思いました。

例えば、咳がないのに咳止め飲む必要ないし、咳止めにしたって咳を止める方法はいくらでもあって、症状にあった薬を飲まなきゃいけないわけで。

そんなわけで、一昨日から薬が少し減りました爆笑キラキラ


せっかく頭使える年頃なんだから!って提案してくれた看護師さんのお話でした。



ゆきこの母です。

先月四十九日法要も済ませましたが、まだ気持ちの整理もつかないままでいます。

8月1日。生きていれば25歳3ヶ月。
夏が好きだった娘。
元気でいたならきっと「お母さん、どこかに出掛けよう!」そう言って目を輝かせて計画を立てた事でしょう。

毎日が辛くて寂しくて苦しいです。
何故あの子がいなくならなければいけなかったのか…そればかり考えてしまいます。

今回 ブログを更新させていただいたのは 四十九日も過ぎたので、娘がアプリに保存していた記事4つを公開しようと思った為です。
書いた記事の前2つはおそらくタイミングを逃したから…と思われます。
後の2つは 自分は弱音を吐きたかっただろうに、自分らしくないと思ってそれを隠そうとして無理に明るく書いているように思える内容です。
結局 自分の気持ちをうまく表現出来ずにいて投稿出来なかったのだと思います。


実は亡くなってから看護師さんに聞いたのですが、本人は4月6日に肺炎で緊急入院することになって、両親が入院荷物を取りに自宅へ帰っている間、脳外科担当医の1番信頼している先生から
「たぶん君の命は1年は厳しい。半年も…分からないんだ。でも決して明日ではないし、明後日でもない。だから今、やりたい事を考えて一生懸命過ごそう」と告げられていたそうです。
両親が病院に戻った時はいつもの顔でした。
でもその時は全てを知り、それを受け入れていた事になります。
5月1日に25歳になり その2日後に再入院した時は、親しい看護師さんに
「来年の誕生日は迎えられない。私はずっと25歳から歳を取ることはないの。辛いなぁ…」と弱音を吐いていたそうです。

そんな娘の胸の内も知らず、親は
「来年も絶対にお誕生日のお祝いをしようね!必ず治してあげるから。」
こんな言葉が娘をどれほど苦しめていたか…
だから娘は甘えも弱音も私達には言えなかったのだと思います。

親が思っている以上にずっとずっと強くて親思いの出来過ぎた娘でした。

この記事のあとに4つ続けて投稿します。
読んでやってください。
ゆきこの母です。

去る6月11日土曜日。
娘・ゆきこが永眠いたしました。
25歳でした。

今まで こちらを訪問しブログを読んでくださいましてありがとうございました。
亡き娘に代わりお礼申し上げます。
また、こちらにコメントをくださった方、舌会を通じてお知り合いになり娘を励ましてくださった方々に重ねてお礼申し上げます。


前回の記事を投稿した後も体調が良く、私と料理したり家事を手伝ってくれたりしており順調に回復しておりました。
4月2日にも家族でドライブするなど楽しく過ごしておりましたが、6日の診察日朝、少し熱があり診ていただいたら肺炎を起こしていました。
CT 撮影後、抗がん剤を予定していましたが、先生から「癌が小さくなっていない。今後の抗がん剤投与をやめる」…つまりは今後の治療を断念するというお話がありました。
「緩和ケア」痛みを取るだけの治療、それは何を意味するのか…
娘はその話をどんな思いで聞き、どれたけ苦しんだことでしょう。
でも親である私達には、前向きに「今 肺炎を治して体力の底上げをしておけば、また治療をしてもらえるかもしれない。この先、良く効く薬だって出来るかも!」と話していました。

4月19日には1度退院し、その数日後には姪っ子(従姉)とディズニーランドへ行きましたが、腰痛を訴えていてもしやまた骨転移か…と本人は分かっていたようです。

5月1日はゆきこの25歳の誕生日でした。
買ったばかりのお気に入りのワンピースでお洒落をして、家族でディナーを食べに行きました。
この時から、目が良く見えないと言い出していて、楽しい食事の間中、私はとても恐怖を感じていました。
薬を強くしたのでその影響であってほしい。
脳への転移ではありませんように…
そんな願いも空しく5月3日に緊急入院となり、脳・骨への転移が判りました。
目が見えなくなり、体の痛みも増すばかりでどんなに辛かったことか…。
それでも娘は前向きに「骨転移は放射線治療をしてもらったら1ヶ月後には痛みが軽減してるかも」と積極的に治療を受けました。
脳は何も出来ませんでした。ただ、脳の浮腫みを取る点滴だけを受けていました。

身体の自由が利かなくなってもやりたいことを考えて、娘は先生に「15周年のディズニーシーに行きたいな」とお願いしました。
先生・ナースの皆様のご協力で5月18日にほんの数時間出掛ける事が出来ました。
観たかったショーと、お土産をたくさん購入して「楽しかった~」と言ってくれました。
これが最後の外出となってしまいました。

お家に帰りたい、もう一度自分のベッドで寝たいなぁと話していた娘の願いは叶えてやれませんでした。

6月に入ってからは体の痛みが激しくなり、会話も殆ど出来なくなってしまいましたが、本当に最後まで頑張りました。
最期の晩、家族全員で病室にいましたが、呼吸は安定していたので主人が別室で寝てくるよ、と言った途端、呼吸も心臓も止まってしまいました。
本当に急でした。
まるで、お父さんどこにも行かないでって言ってるみたいでした。


主治医の先生やナースから、娘が生きたいと強く願い、頑張った姿勢は心を打つものがあり、一生涯忘れられない患者さんになりました…と言っていただきまして、親としてはその言葉が救いです。

短すぎる娘の生涯でしたが、最期まで全力で駆け抜けた、娘の生き方を誇りに思います。


娘はブログを書き始めて皆様に出会えた事にきっと感謝していると思います。
皆さんと、あのときは治療が大変だったね~と話ながらお酒も飲みたい、あんなに体が痛かったけど今はこんなに元気になってディズニーで遊べて幸せ~って言いながらブロ友さんと出掛けたいとずっと話しておりました。


皆様はこれからも治療が続くかと思いますが、決して癌に負けることなく娘の分まで闘い抜いてくださいね。

長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。