2024年末の美容外科医の「献体写真公開騒動」の件で、私は、初めて「カダバー トレーニング」という言葉を知った。

 

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カダバートレーニングとは、遺体を使って外科医が手術技術を習得するためのトレーニング方法であり、残念ながら日本ではあまり行われていないらしい。

 

てっきり、私は、技術が要求される難しい手術法は、患者に施す前に遺体でそれなりに練習を積むのが普通だと思っていたけれど、現実は違っていた。

 

大阪の☆さんは、腰椎固定の「セクスタントR」という当時新しい術式の施術を受けた。しかし、この手術は失敗され、一週間放置され、半身不随にされてしまった。執刀医はセクスタントRの医療機器を売る会社職員のレクチャーを受けただけで、実際の経験は不足していたのにかかわらず、不慣れな術式を☆さんに、なんと無断で施行。

 

ネガティブ(それって、、どうなん??)

 

手術が失敗に終わっただけでも絶望的な状況なのに、術後に血腫が発生し、「安楽死させて」と懇願してしまう程の激しい痛みに苦しんでいた☆さんに、執刀医は「血腫はどの手術にもつきものだから、そのうち吸収される」と言い、何の検査も行うことなく一週間も放置したのだ。

その医師の姿勢にも、ただただ言葉を失ってしまう。

 

しかし、さらに驚くべきことに、この辛すぎる経験に対して裁判では敗訴となった。

☆さんの弁護士が証拠をなぜか提示しなかったことも一因と思われる。

 

☆さんは、当時の状況や画像、脊髄麻痺が引き起こす感覚の異常について、以下↓に、詳しく記載してくださっています。

昔の私だったら、こんなにもひどい医師や弁護士が存在することなど信じられなかったけれど、初めての手術入院で現実を目の当たりにした今は、明日は我が身で、他人事ではないと危機感を抱いている。

 

医療過誤と隣あわせと思われる脊椎外科では、当然訴訟対策として、術前説明などは隙のない対応をするものだと思っていたけれど、実際はそんなことは全くなかったし、術後の痺れを訴えた同室の患者さんに、「なら、次はここの手術だね」と言って、あっさりとその場を去った医師もいた。(興味のある方は過去記事参照してください) 

医療過誤で患者を障害者にすることより、訴訟される事に心を痛める医者も多いだろう。

医療現場の現実は、私の想像外だった。

 

もちろん、手術における試行錯誤とその積み重ねの結果として、新しく低侵襲な手術法が確立されるのは、未来の患者にとっては喜ばしいことだと思う。もしかしたら、私も将来その恩恵に与るかもしれないし、現在だって、そういった今までの積み重ねの上に成り立っている。

 

しかし、私たちが手術を受けるのは、ただひたすらに自分自身の健康を回復させるためであり、医学の進歩のために身を捧げる理由はどこにもないのだ。

 

医学者だけが英雄なのか

 

以前、こう問いかける『0番目の患者 逆説の医学史』という本を読んだ。

医師でもある著者は、医学史の裏側に埋もれた患者たちを正当に評価したかったため、医師ではなく、患者たちの犠牲と貢献に焦点を当て、この本を書いたそうだ。この本では、いろんな病気の0号患者(ある病気を特定することとなった初めての患者)が語られている。

 

カバーの表表紙の裏側に次の言葉が印刷されていた。

 

病気を感じる人たちがいるから

医学があるわけで、
医者がいるから人びとが
彼らから自分の病気を教えてもらうのではない。


――ジョルジュ・カンギレム『正常と病理』より

 

 

話は戻るけれど、私は手術直後の麻酔から覚めた時に、なぜか高揚感を漂わせている担当医を見て嫌悪感を覚えた。「献体写真公開騒動」のニュースでその記憶を思い出し、私は自分が献体になることは絶対に無理だと思った。

 

「自分が死んだら、身体は医学のために使ってください」と言える患者は、きっと医師との間に厚い信頼関係が築かれているんだろう。