私は一族の、最後の砦。 | いま、ここ あるがまま ~自分の感覚を信じることは、自然体で生きること~

いま、ここ あるがまま ~自分の感覚を信じることは、自然体で生きること~

さまざまな体験を経て、自然体で生きる日々を綴る、Norikoの日記

 

※こちらの投稿は、私が生まれ持つ『霊媒体質』によって繰り広げられる出来事をヒトリゴトとして呟いているものです。
 『霊媒体質』やそれに関連した内容が理解できない方は、Uターン推奨です。

 気になる方はブログテーマ【霊媒体質あれこれ】にまとめておりますので、こちらをどうぞ☆

 

 

 

 

 

今日(10/16)は午後から、プライベートな打ち合わせで渋谷へ。
終わって渋谷の街を歩いていると、ふと目に止まった看板があり、思わずパチリ☆

 

 

 

 
 

 

 

 

 


私のいまのココロを読んだかのような言葉に、思わず苦笑いをした。





その帰り、列車のなかでふと、「いまの私」が「この立ち位置」でいるということに改めてフォーカスしたら『うわあぁぁ~~!!』ってなって、同時に物凄くみぞおち辺りが震えて泣きそうになった。





私は、非常に感度の高い『霊媒体質』を持って生まれてきた。
そのことを、明確に知ってから3年。
この体質と一生付き合っていくことを決めてからは、必要な時にその対応をしながらも、自分の人生を、私が考える範囲で「普通に」生きていけるものだとばかり思っていた。





ところが今回、私の『霊媒体質』としての「能力」のなかには、親族やそこに連なるものが抱えている霊的な問題も引き受ける度量があるということが発覚した(実は、突発的に発症した手湿疹の本当の理由はコレ)。
つまり、私自身の「天命(「あの世」から「この世」に生まれてくるときに決めてきたこと)」を全うすることのなかに、この『霊媒体質』としての「能力」を、状況に応じて余すことなく発揮することが必須であるということになるのだ。

 

 

 

 

 

再現されている『霊媒体質』の現象は大小様々あり、『霊媒体質』持ちの人すべてがこうした立場にあるわけではない。

けれど私の場合は、この分野における一族の「人柱」なのだろう、と思った。

 

※ここでの「一族」とは、祖父母以下、父方・母方・夫方の存命親族全てを指す。

 

 

 

 


「人柱」は「生贄」ともいうが、この場において自己犠牲なんてものは、とてもちっぽけなものだ。

なぜなら結果として、自分のためにもなることだから。

 

 

 

 

 

こうしたことは「この世」において決して大っぴらには評価されず、そして密かに行われることだと理解している。

そのことから、このような資質を持つ私の「この世」における存在意義は、見えない世界の存在に特化した、一族の「最後の砦」といったほうが近いのかもしれない。





そのことを少しずつ実感していく中で、こんなことを思い出した。

この数年の間、特に自分のことに関しての直感は外れたことがない。
いまの時点で、私にとって良いと思うことや悪いと感じること、都合が良いことや悪いと思うこと。
そして、納得がいくことも承知しかねることでさえ、薄々感じていたことが『あぁ、やっぱり』となっている。





だけど、未来ははっきりと決まっているわけではない。
私がこれから何を選び決断していくのかは、私が引き受けることになった(一部の)親族の魂事が全て終わったあとに分かるのだと思う。





やれやれって感じだけど、やれることはやろうと思います。
全ては、それからです。