第三夜「きっと飛べるはず」
夢の中の私は、飛べるはずである。
風のように大空を飛び回った、その言葉にならぬ爽快な感覚が、私の身体には確かに記憶されている。
そして今日も私はその快感を味わうべく、高層マンションの屋上で、今まさに飛ぼうという体勢で、呼吸を整えているのだ。
しかしそこでふと、不安が頭をよぎる。
…私は本当に、飛べたのだろうか?
あれはただの、夢ではなかったのか?
だがそれを確かめる術はない。
…いや。正確には、それを確かめる為には、飛び下りるしかなかった。
そう考えると途端に足が竦み始め、私の‘飛ぶ’高揚感は、‘死への恐怖’へと取って代わられた。
私は飛ぶ事を諦め、屋上の縁から後退りしようとする。
だが、私の中に残された「確かに飛んだはずだ」という淡い確信が…そして何よりその時の快感の記憶が、私の足を再び、屋上の縁へと進ませた。
気がつくと、私の身体はもう、屋上の一番縁にまで達していた。
眼下を見下ろすと、目の眩むような景色が、そこには広がっていた。
葛藤の末、ついに‘飛ぶ快感’は‘死への恐怖’を一時的に凌駕したようだった。
「自分はきっと飛べるはずだ」という曖昧な自信が、最終的に私の衝動を強烈に突き動かした。
私は飛び下りた。
激しすぎる風の抵抗に、息が詰まりそうだった。
屋上から足が離れるとすぐに、曖昧な自信は‘不安’と‘恐怖’とに、いとも簡単に打ち砕かれていった。
物凄い速度で落下していきながら私は、飛べるなどと思い上がっていた自分を心底恥ずかしく思い、己の無能さをも痛烈に思い知った。
…がしかし、心のどこかで「やはり私は飛べるはずだ」という確固たる自信が、強く湧きあがってきた。
いつの事かは忘れてしまったが、夢でも幻でもなく、間違いなく私は飛んだはずだった。
生身の身体で大空を飛行し、その風を全身に受けて、鳥のように自由を満喫した記憶が、鮮やかに甦った。
その瞬間私は、全てを思い出していた!
飛ぶ方法の全てを!
私は完全に自らの飛び方を取り戻し、私の身体は実に華麗に、上昇の体勢に入ろうとしていた。
落下の勢いを借りて、弧を描くように身体が風に乗り始めるのを、私は感じた。
しかし、その直後だった。
私の身体は、猛烈な勢いで地面に叩き付けられた。
コンクリートを汚らわしく血に染めながら、私は悔しさを噛み締めた。
しかし、舌打ちしようにも地団駄を踏もうにも、私の身体はもうただの肉塊と成り下がり、どこがどこだか判然としない状態になっていた。