第五夜「白い部屋」
幼い私は、白い部屋にいる。
本当に壁紙が白いのか、眩しく差し込む日の光に、ただ部屋全体が白く見えているだけなのかは分からない。
小さな身体で足をぶらぶらさせながら、私は部屋の真ん中に置かれたテーブルセットの椅子に腰掛けている。
テーブルを挟んで、まだ若々しい父と母がいた。
父も母も、穏やかに笑っていた。
それは、人間が本当に幼い時にしか訪れる事のないような、緩やかで、ひたすら平和な時間だった。
この部屋には、人生の苦痛も、不安もなかった。
私はこの部屋で、ずっとこのままこうしていたいと思った。
しかし、まず父が席を立った。
日の差し込むベランダに続く窓の方に向かって歩きながら、父は振り返りざまに一言「生きるという事は苦しみの連続だ」と言った。
やがて父は、ベランダの方へと消えていった。
父がいなくなったのは淋しかったが、まだ目の前には母がいた。
私はテーブル越しに母の手を取ろうとしたが、まるでそれからすり抜けるように、続いて母も席を立った。
母は父とは反対側…玄関に続く廊下の方へと歩いてゆき、やはり振り向きざまに「人生は惨めだ」とだけ言った。
そして廊下の暗闇へと姿を消し、部屋と廊下を隔てる扉を、バタンと閉めてしまった。
部屋には、幼い私一人が残された。
いくら待っても父も母も、もう帰ってはこなかった。
迫り寄る孤独と不安に為す術もなく、私はただ打ちひしがれた。
するとどこか遠くから、波の音が聞こえてきた。
恐る恐る窓の外を見てみると、この白い部屋は、干潟の上に建っているのが分かった。
やがて満ち潮になれば、この部屋は波に飲み込まれてしまうだろう。
私は怖かった。
しかし不思議な事にその反面、心のどこかで、ワクワクもしていた。
「たった一人ぼっちで、いよいよ自分は荒波へと出てゆくのだ」という思いに、不安と期待の入り交じったような、甘美な緊張感が高まった。
恐れる事はない。たとえ溺れて、海の藻屑と消えようと構わない。
私の冒険が、今まさに始まろうとしていた。
そして潮が満ちてきて、波が白い部屋の床を洗っていった。
私は最後に一瞥、もう戻る事のないこの部屋を振り返ってみた。
海水が日の光を受けて、白い部屋一面に陽炎のような影を映し出していた。
私は旅立った。