【狂猫抄】伍 | 桂米紫のブログ

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米朝一門の落語家、四代目桂米紫(かつらべいし)の、独り言であります。

永らく空き家だった隣家に、誰か越して来た。

私は前日まで仕事で旅に出ていたもんだから、まだその隣人にお目にかかってはいないのだが、棟続きの文化住宅の隣家からひっきりなしに聞こえてくるカタカタという物音に、私は早朝から新たな隣人の存在を、必要以上に意識する羽目となった。

恐らく昼過ぎまでには、隣人の方から引っ越しの挨拶に来るだろうという私の予想は、見事に外れた。
隣人は壁越しにひたすらカタカタという音を響かせてくるのみで、夕方になっても夜になっても、挨拶にはやって来なかった。

結局その日は、隣人の顔を拝めぬままに終わっていった。
しかしカタカタという物音は、深夜になっても鳴り止む事がなかった。

隣人は、どうして挨拶に来なかったのだろう。
ひょっとしたら私の帰宅に気付いていないのかも知れないし、荷物の解体作業でそれどころではなかったのかも知れない。

しかしそれにしても、あの一日中鳴り止む事のない物音は、少し奇妙だ。

古い文化住宅の狭い一室に、早朝から深夜まで掛けて片付けねばならぬような、大量の荷物もないだろうに。

隣人は隣で、一体何をしているのであろうか。

布団に入った私は、それ程の長時間物音を立て続ける必要のある隣人の様子を、色々と想像してみた。

もしかすると隣人はどこかの新興宗教の猛烈な信者で、部屋中を“サティアン”のように改造しているのかも知れない。

もしくは隣人は全国を転々としつつ犯行を重ねる連続殺人鬼で、物音は犠牲者の死骸を始末する時の音なのかも知れない。

そんな取り留めのない想像をしつつ、まだしつこく鳴り止まぬカタカタという物音をぼんやりと聞きながら、私は眠りに落ちていった。


どれくら眠ったであろう。
暗闇の中、私は目を覚ました。

隣家からのカタカタという物音は、まだしつこく鳴り続けていた。

…いや、それは今、隣家から聞こえてはいなかった。

その音は眠りに就く前よりも近付き、それに伴って確実に大きくなり、私はまさに今、その音によって目覚めたのだ。

物音は、私の寝ているすぐ右側…隣家と壁一枚で隔てられた、押し入れの中から聞こえてくるようだった。

私は暗闇に目を凝らし、そしてゆっくりと起き上がり、恐る恐る押し入れの襖に手を掛けた。

襖を開けようと、手に力を込めた瞬間だった。
物凄い勢いで、襖がひとりでにスパーンと開いた。

驚く私の目の前に、顔があった。

その顔はとてつもなく大きく、押し入れの上から下までの全面を覆い尽くしていた。

「こんばんは」

押し入れいっぱいの顔はにたにたと笑いながら、私に向かって嗄れた声でそう言った。

にたにたと笑う度に顔は醜く歪み、顔が歪む度に奥歯が合わさって、「カタカタ」と音を立てた。


かくして私は、音の発信源を知ったのである。


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