かなり若い頃の話です。ほんの、4年前ぐらい(あ…割と最近やった)。
何かしらに怒りをぶつける事で、自分のアイデンティティを保っていたのです。
だから、幕末や学生運動華やかかりし頃の動乱の時代を、羨ましいとさえ思っていました。
怒りの矛先がはっきりしていて、“怒りが転覆のパワーにつながる”という有意義さを、皆が感じられたでしょうから。
でもそんな大きな怒りの矛先のない現代…いや、本当は憤るべき国家的な巨大悪はあるのでしょうが、そんな事よりも“よりパーソナルな憤り”をそれぞれが携えている現代、怒りの矛先は隣人やネットの掲示板に向けられます。
僕自身、怒りを持て余していたところがありました。怒りの矛先を見つけるのに、躍起になっていたと言っていいかも知れません。
今は反省しています。
その時に気分を害された皆様には、ここで平謝りします。本当にごめんなさい。
でも考えたらそれは、殺伐とした恐ろしい世の中です。
当然、怒らなければならない時だってあるでしょう。
でもパーソナルな場で発せられた有り余った怒りは、往々にしてより大きな怒りを生み出す事になるんじゃないかと思うのです。
暴力が、より大きな暴力しか生まないように。
僕も以前は好戦的な性格をしていましたが、そんな無駄に“怒りの種”を振り撒いている場合ではないと、実に遅まきながら気づきました。
僕は人を楽しませて、殺伐とした社会に潤滑油を注すことこそに努力をせねばならぬのであって、怒りをぶつけて火に油を注ぐというのは、確実に油の種類が違います。
だから、少なくとも有り余った怒りの火は、極力消火しようと心掛けています。これは僕の修業です。
自分発信の火も、降り懸かってくる火の粉も込みで。
元が“瞬間湯沸かし器的人間”ですので、思わずまだ“ボッ”と火がつきかける事もありますが、そんな時は「まだまだ修業が足りないな。まあまあ」と、マアマア棒を口に当ててみるのです(ドラえもんより)。
他人というのは、所詮解り合えない部分を持っています。
そこを無理にほじくり返しても、解り合えない部分にスポットライトが当たるだけだったりするもんです。
それよりは、解り合える部分にスポットライトを当ててやった方が、いくらか世界が平和になるんじゃないかと思うのです。
頑張って火を消します。
必死で消してるうちは、まだ修業不足です。
笑いながら消します。傍から見たら気持ち悪いぐらいに、笑いながら消します。
で僕自身が、極力楽しく生きたいと思います。
周りに伝染させるなら、怒りよりも憂鬱よりも、楽しさの方が良いと思います。
あ! こじろう、またカーペットの上にゲロ吐きやがったな!!
いえいえ。笑いながら拭きます。
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