(臨時営業)「われわれはどこから来たのか」、あるいはゴーギャン展
2013年8月6日(火) 週末、ソウル中心部の市庁舎近くにあるソウル市立美術館で開催されているポール・ゴーギャン展に行ってきた(★1)。《★1 韓国では「폴 고갱(ポル・ゴゲン)」(「ゴゲン」→https://ja.forvo.com/word/%EA%B3%A0%EA%B0%B1/#ko)。ソウル市内にこの展覧会のポスターが貼り出された時も最初はこの文字がゴーギャンのことだと気づかなかったのだが、その背景となっている「われわれ」を見てすぐにゴーギャン展のことだと分った。 ちなみにゴーギャンらが暮した「ポン・タヴェン(Pont-Aven)」は、綴りにもとづく通常の発音「퐁타방 ポン タバン」と表記されている(実際の発音は「ポン・タヴェンヌ」に近い→https://ja.forvo.com/word/pont-aven/#fr)。》 ソウルに来てから1年数ヶ月たつが、これまでわざわざ足を運んでもいいと思うような美術展がなかった上、年とともに感性が衰えて美術作品全般への興味が急激に薄れたこともあって、今回のゴーギャン展が韓国で初めて訪れる美術展となった。 韓国では大統領をはじめ8月1日前後に夏休みをとる人が多く、この週末であれば地方や海外に出かける人たちのおかげでソウル市内の人口は大幅に減るだろうと思ったことと、今回の回顧展が、午後6時以降に入館すると通常の13,000ウォン(約1,150円)から11,000ウォン(同950円)に割引になることもあり、日曜日の夕方に訪れた次第である。 実際、市内のあちこちで広告を見かける話題の美術展にしては気の毒なほど観客数は少く、チケットを買うのにも絵を思う存分鑑賞するのにも少しも苦労しないで済んだ。 もっとも映画監督のポン・ジュノ(봉준호)がハリウッドで撮影した新作「雪国列車」はこの8月から公開となるや観客が押し寄せ、早くも観客動員記録を塗り替える勢いだというから、それなりの数の人はこの休暇期間中も韓国内に留まっていたようなのだが、あいにくゴーギャンにはあまり関心が向かなかったようである(ポン・ジュノは私にとっても新作が発表されれば必ず見たいと思わせる数少い映画監督の一人なのだが…)。 「楽園を描いた画家ゴーギャン、そしてその後」(英語ではVoyage into the Myth GAUGUIN and after)と題し、「ゴーギャン3大傑作 世界最初 ひとつの場所へ」(★2)という謳い文句をかかげたこの展覧会には、「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか(以下「われわれ」★3)」、「黄色いキリスト」、「タヒチの女たち」、「黄色いキリストのある自画像」など、確かに躊躇なしに代表作と呼べる作品が何点も集められている(上の3大傑作の中には、最初に挙げた2作の他に「説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)」という作品が含まれているのだが、生憎私はこの作品のことはこれまで知らなかった)。 このなかには以前私が勤めていた某日本企業が、ひところ流行ったメセナ活動の一環として資金を提供し、オルセー美術館が買い取ったという説明書きのある絵もあったのだが、当時の経営者がどうした訳か「おフランス」にかぶれて会社の金を大量につぎこんではフランス側に良いように利用され、その見返りとして一番ランクの低い勲章を貰って嬉々としたりしている様を冷ややかに眺めていた身としては、思いもかけず異国の地でその会社名を目にしては思わず意味のない苦笑を浮べていた(もっとも展示作品の説明文は、韓国語と英語の題名以外は薄い色で非常にちいさく書かれていたため、ソウル広しといえどもその社名に気づいた人間はおそらく私一人だったと言っていいだろうが・・・)《★2 あえて直訳のままとした。★3 ちなみに日本には2009年のゴーギャン展において初めてお目見えしたそうであるが、当時日本にいなかった私は見に行く機会を逸してしまった。この時の展示作品数は53点と今回の回顧展より少いが、1987年の大回顧展の際には約150点もの作品が公開されたそうである。もっとも展示作品数が多ければいいというものでもないが・・・。》 正直に告白すれば、これまで私にとってゴーギャンという画家は、なによりも「胡散臭い」画家でしかなかった。 株式仲買人として羽振りの良かった時に言わば「日曜画家」として趣味で絵を描いていた若き日の凡庸な肖像から始まり、アルルにおけるゴッホとの共同生活の破綻や、タヒチを含む南洋への旅行や移住、幾度か試みられた自殺や奔放な女性遍歴などなど、後にサマセット・モームやマリオ・バルガス=リョサが小説のモデルとしたように劇的な挿話には事欠かないものの、この画家の言動からは露骨なまでの西欧中心主義(その裏返しとしての「オリエンタリズム」)や男性中心主義=男根主義が容易に透けて見えてしまうようで、その一見波乱万丈な人生すらも、一人の優れた画家が自らの芸術を窮める過程で否応なく味わわざるを得なかった生き様であるというよりは、作品を描くために無理やり作り上げていった「仮構」でしかないのではないかという疑念を抱き続けてきた。 今回の回顧展最大の目玉である「われわれ」にしても、タヒチにおける神話や「原始的生活」(★4)をモチーフにしながら、ゴーギャンその人を含む卑小なる人間の誕生から死に至るまでの生涯を批判的・否定的な視点から描き出しているとも、アダムとイヴの楽園からの追放(原罪の発現)から始まる人間存在の堕落と衰亡の過程を俯瞰しているとも、あるいは西欧文明への失望からタヒチに逃れはしたものの、結局その世界の果てまで行っても「楽園」などはどこにもなく、落胆と絶望しか見出しえなかった画家の絶望を表出しているとも、如何様にも解釈することは出来るものの、しかしその思わせぶりな題名からして既に「はったり」ではないのかという気もしていたのだった。《★4 今回の展覧会の解説文などでもこうした紋切型(クリシェ)が平然と記されていて、結局現代においてもわれわれはゴーギャンの時代と大して変らない(似非)西欧的視点による「オリエンタリズム」から未だに自由になりえていないと思わずにはいられなかった。》 ゴーギャンと言えば必ず口にのぼる「綜合主義(synthetisme)」だの、彼がゴッホやエミール・シェフネッケルらに宛てた書簡(★5)で述べているような「芸術とは抽象である」という言葉だの、やはりこれまた思わせぶりで曖昧な用語や物言いが少くないのだが、「われわれ」の題名と同じくこうした後から無理やり取ってつけたような「意味付け」もまた、私にはただ「胡散臭い」ものとしか思われなかったのだった。《★5 「ひとつの助言だが、自然に余りに即して模写しないことだ。芸術とは一つの抽象だ。自然を前に夢見つつ自然から抽象を取り出すこと、そして結果(としての作品)にではなく、創造行為そのものに集中すること。われらの聖なる主が『創造』されたように為すことが、神へと至る唯一の手だてなのだ」(1888年8月14日シュフネッケル宛書簡)、あるいはhttps://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502038044.html 参照。》 そしてまだ梅雨の明けきらぬ蒸暑い日曜日の暮れ方、薄暗い展示室にかけられた絵のまわりを行ったり来たりしながら、「われわれ」だけを1時間近くもかけて遠く近く見続けたあとでさえ、私はそうした疑念を完全に拭い去ることが出来た訳ではなかった。それでもしかし、実際に目にする「われわれ」の絵画的存在感はやはり圧倒的なものであり、それを描きあげたゴーギャンという一個の肉塊がそのうちに秘めていた精神の深みや真摯さ、切迫さといったものに多少の疑念があるにしても、この絵のなかに一人の職業画家としての一到達点を見ることは必ずしも間違いではないに違いない。 そうした意味で今回のゴーギャン展を見たことはそれなりに意義あることだったと言ってもいいのだが、しかしひとつの企画展としてのこの展覧会のコンセプトや作品配列の仕方がどうだったかと言えば、お世辞にも褒められたものではなかったというのが正直な感想である(加えて有名作品にお金を使いすぎたせいか、作品数が全部で60点と決して多くないことも残念な点である)。 特に作品陳列が(解説によれば)「ブルターニュ期(1873年~1891年)」→「ポリネシア期(1893年~1903年)」、そして初期の修行時代という変則的な順番だったため、「われわれ」のような画家の到達点に位置する突出した作品を見せつけられた後で、これといった資質をまだ見出しえていない初期の作品を見せられても、ただただ興醒めしてしまうだけでしかなかった。 韓国初だという今回のゴーギャン回顧展に関しては、普段は日本に対する偏見に満ちた一方的な記事(というより作文)を載せては、日本のメディアやネット右翼たちにネタ(オカズ)を提供し続けている韓国「中央日報」にしては珍しく、今年日本で開催された「フランシス・ベーコン展」と比較しつつ、批判的な見方を掲載している(7月9日付「韓国に初めてきたゴーギャン、歓迎だけに終わらない理由」 https://japanese.joins.com/article/675/173675.html)。 批判の中心は、今回のゴーギャン展にはベーコン展において探究されていた「なぜ私たちにベーコンなのか」という問いに対応するような「なぜ今ソウルでゴーギャンなのか」を模索するような統一コンセプトがない上、ゴーギャンと大して関係のない韓国現代美術家の作品を強引にゴーギャン作品の合間に展示した「外部プランナー」主導の企画に対する違和感なのだが(展覧会のタイトルにある「その後」という言葉が現代作家の作品展示のことを指しているらしい)、実際、ゴーギャンの作品を見ながら順路通りに進んでいき、如何にも現代美術といった風の訳の分らない作品が突然大きな空間にポツンと置かれているのを目のあたりにすると、それまでゴーギャンの作品と向き合っていた緊張感から一気に現実に引き戻され脱力しないではいられない(そもそも私はそれらが美術館の装飾の一部であって、「作品」であることにすら暫く気づかなかったほどである)。 確かに余り関連性の見られない現代美術作品を無理やり展示することは論外だとしても、しかし個人的な好みを言えば、キュレイターだか学芸員だかによる解釈やコンセプトを一方的に押し付けられて否応なしに特定の先入観を持って絵を見せられるよりは、大したコンセプトなどなく画家の作品をただ無造作に年代順に並べてもらった方が余程ありがたい。もっとも今回の展覧会は、これというコンセプトがないのは別段構わないとして、上にも書いたように作品陳列の順番と制作年代とが後先になってしまっており、その意味では個人的にも決して望ましい展覧会だったとは言えないのだが…。 「われわれ」関連で面白かったのは、この大作と構図や人物が部分的に共通している作品が何点か、同じ展示室に展示されていたことで(1898年制作の「Faa Iheihe」や1903年制作の「L'Invocation」)、最初はこれらの作品が「われわれ」のためのエスキスだと思っていたものが、制作年度から推定するとむしろ「われわれ」と同時期、あるいはその後に描かれた同じモティーフの作品か、一種のリメイク作品(あるいは最近のドラマなどで言うスピンオフ作品?)とでも言うべきもので、画家自身を通して見・再構築された別ヴァージョンの「われわれ」を見るようで興味深かった。 以上、あれこれ文句を書き連ねはしたものの、結論的には一度は見たいと思っていた「われわれ」の実物をじっくり見られたことだけでも善しとしなくてはならないと、今回の回顧展開催中にソウルにいられたことの幸運を感謝しているところである。(補記)ついでだが、今回の回顧展のカタログは30,000ウォン(約2,650円)もするにもかかわらず、原画はもちろん、上に掲げさせてもらったインターネット上の画像よりも色使いが悪く、大枚はたいて買う気には到底なれない代物だった。