2024年2月22日(木)

 日本ほどではないものの、韓国も例年に比べてかなりの暖冬なのだが、昨日は夜から雪が降りはじめ、積雪量は今冬で最も多かったかも知れない(ただし朝には大分溶けてしまっていた)。

 上の写真は家の窓から撮った隣の公園だが、積もった雪がなかなか溶けずに白くなった電線の効果もあってか、実際より雪が多く積もっているように見える。雪が降るたびにアパートの入口や通路を雪かきすべきかどうか思い悩むことになるため、降雪は私には決して喜ばしいものでなく、そうでなくても年々冬の寒さがこたえるようになって来ており、1日も早く冬が終わって春が到来することを日々願い続けている。

 

 

 何度も書いているように私はテレビ・ドラマ(特に連続モノ)というものをほとんど見ず、たまに見てみようと思い立ったとしても基本的には1話完結で時間的にも30分以内のものにしか食指が動かない。ひとつのドラマに数週間乃至1年もの時間を費やすくらいならば、1本/1冊でも多く映画を見たり本を読んだりする方が遙かにマシだと思っているからなのだが、このところ珍しく2つの連続ドラマを途中で止めることなく見続けている。

 

 最初のドラマは、当ブログで以前採り上げたことのある(以下参照)笠置シヅ子をモデルとしたNHKの朝ドラ「ブギウギ」で、15分というお手頃な長さだということも大きいのだが、約半年にわたって放送されるこの種の連続ドラマを見続けることは私にとって例外中の例外と言って良い。

 

 

 初回から現在まで視聴し続けている最大の理由は、モデルとなっている笠置シヅ子に関心があるからなのだが、それにも増して主人公・福来スズ子を演じている趣里という女優の魅力が大きい。

 水谷豊と伊藤蘭という俳優・歌手を両親に持つこの女優のことは、映画「空白」(2021年)や「彼女の人生は間違いじゃない」(2017年)などで知ってはいたのだが、いつもどこか翳のある地味な役柄で、暗く内向的な人という印象を抱いていた。

 

 

 しかしドラマ「ブギウギ」では一転して、コテコテの大阪弁で思ったことを次から次へと口にして憚らない外向的な役柄を演じており、しかも何の違和感も抱かせない自然な立ち居振る舞いで、自分が貰い子であることを知って思い悩んだり、育ての母親や最愛の恋人と早く死別するなどの苦境に直面しても、自分自身を客観視して苦悩の渦中でも自ら鼓舞しようとするような芯の強さを感じさせ、それはまさに私がモデルである笠置シヅ子という人に抱いているイメージと重なる部分が多く、自然と惹き込まれたのである。

 

 

 他にも淡谷のり子をモデルとする茨田りつ子(演ずるのは菊地凛子。上の写真右)をはじめ、個性的で魅力的な登場人物は少なくないのだが、最近で最も印象的だったのは、有楽町界隈で通りに立つ街娼たちと流行歌手・福来スズ子の交流を描いたエピソードである。

 笠置シヅ子と彼女たちとの交流については、上記の過去ブログでも言及している評伝「ブギの女王・笠置シヅ子―心ズキズキワクワクああしんど」の著者・砂古口早苗による下の記事で読んではいたのだが、まさかNHKで毎朝のように「パンパン」や「パンパンガール」などという言葉が口にされるなどとは夢にも思っていなかったため、なぜか感動(?)すら覚えたものである(街娼というような人たちがこの世に存在せざるをえなかった(えない)ことを肯定的に捉えている訳ではむろんないのだが、過去に実際に用いられ、流布した言葉や物言いを、現代の価値観から安直に排除したり言い換えたりすることに、個人的には抵抗があるためである。たとえそれが侮蔑や差別意識を含んだ物言いだとしても、そうした侮蔑や差別意識が厳然と存在した(存在する)事実を忘れないためにも、臭いもの(という考え方も問題ではあるが)に蓋をするような姑息な仕方は出来る限り慎むべきだと個人的には考えている)。

 

 

 「ブギウギ」では、実在した「ラクチョウのお米」という街娼たちの仕切り役だった女性がモデルの「おミネ」を田中麗奈が演じており(下の写真中央)、これまでのキャリアとは一線を画する大胆で思い切った役柄と豪胆な演技には良い意味で驚かされた。

 

 以下はこのエピソード関連の記事。

 

 以前も書いたが、「ブギウギ」のモデル笠置シヅ子は、「東京ブギウギ」や黒澤明監督の映画「醉いどれ天使」の挿入歌「ジャングル・ブギー」(作詞は黒澤明)、上の記事を書くきっかけとなった「買物ブギー」などを作曲家・服部良一と共に次々と繰り出した戦後間もない日本を代表する流行歌手だったのだが、美空ひばりをはじめとする若手歌手の台頭で世代交代が進んだこともあり、歌手を廃業して女優業に専念するようになった。

 

 

 私の記憶にかすかにあるのも、コテコテの大阪弁でドラマやCMに登場する太ったおばさんという印象でしかなく(下の写真)、映画「醉いどれ天使」や、上のようなYouTube動画で見ることの出来る「歌って踊る」若き日の姿と、私の中のイメージとはなかなか合致しないのである。

 

 

 そうして毎日楽しみに見続けているドラマ「ブギウギ」だが、今作の福来スズ子役は主演の趣里にとってキャリア最大の画期となる当たり役だと思うものの、惜しむらくは演技に比べて歌唱力が弱いということだろうか。

 

 

 本業の歌手である笠置シヅ子と比較するのは酷だと思うものの、彼女がステージに立って歌を披露する場面でも、歌声そのものに惹き込まれたことはほとんどなく、頭の中で無理やり笠置シヅ子の歌唱に置き換えて「脳内補正」しながら見ているというのが正直なところである。

 それでもこのドラマはこれまで朝ドラや大河ドラマをほとんど終わりまで見通すことのなかった私にとって、このまま最終回まで見続けるだろう例外中の例外であり、1日わずか15分間だけの視聴時間ではあるものの、日々のささやかな楽しみとなっている。

 

 

 そしてもうひとつの楽しみもまた1日15分のみのドラマなのだが、朝ドラならぬNHKの「夜ドラ」枠で放送されている「作りたい女と食べたい女」(シーズン2)である。

 「夜ドラ」に関しては、以前当ブログで「あなたのブツが、ここに」という作品について言及したことがあるのだが(https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12790289061.html)、その後も津村記久子原作の「つまらない住宅地のすべての家」や今回採り上げる「作りたい女と食べたい女」(シーズン1)など、個人的になかなか楽しめた作品を幾つも送り出している番組枠である(ただし「ワタシってサバサバしてるから」や「超人間要塞ヒロシ戦記」などは全く好きになれず、最初の数回で見るのをやめてしまった)。

 

 

 「作りたい女と食べたい女」はシーズン1の時から見ていて、今回も初回から現在まで欠かさず見続けている(来週で終了予定。全20話)。

 ただし私はこのドラマをもっぱらグルメ・ドラマとして見ていて、比嘉愛未演ずる料理好きの主人公が、同じマンションの住人である「春日さん」(演じているのはミュージシャンの西野恵未)に手料理を振る舞い、一緒に和やかに食べる場面をボーっと見ているのがただ心地良いだけなのである。


 

 今回の第2シーズンでは主人公がレスビアンであることがより明確に打ち出され、当初は単なる食事仲間だった「春日さん」との関係も急進展しつつある上、会食恐怖症を抱える若い女性が新たに引っ越して来て、いわゆるLGBTQの度合いが増して来ているのだが、私個人としてはそうした性的指向や世の流れに対して微塵も異論や違和感を覚えてはいないものの、このままグルメ・ドラマとしての穏やかな雰囲気が出来るだけ長く続いてくれればと願いつつ見ているところである。

 

 

 というのも、還暦を数年後に控え、人生の「おまけ」とでも言うべき時間を生きている中年(老年?)オヤジの私にとっては、異性間であれ同性間であれ、惚れた腫れたといったものはもはや関心の外でしかなく、語弊を恐れずに言うなら、ただ鬱陶しいだけなのである。

 私自身は根っからの人間嫌いで、一人飯や孤食を全く厭わない(むしろ好む)人間なのだが、仲の良い人々が和気藹々と食卓を共にしている様を目にするのは嫌いではなく(むしろ好きで)、日替わりメニューのように毎日新たな食べ物を登場人物たちが共に食べる姿を見ていられればそれで満足なのである。

 

 ともあれ、毎日15分のドラマ2本を久々に楽しんでいるところである。