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 2016年7月10日(日)
 今月17日まで、ソウルの西部に位置する「デジタル・メディア・シティ」にある韓国映像資料院シネマテック(フィルム・センター)KOFAにおいて、「スクリーン上に永遠に生きる 原節子回顧展」(となっているのだが、展覧会や展示会でもないのになぜ「展」なのかは不明)という特集上映が行われており、昨日、川島雄三監督の「女であること」を見に行ってきた(1枚目の写真は上映会場に飾られていたポスター)。


 このシネマテックで映画を鑑賞するのは、以前このブログで採り上げた大映特集(https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502040710.html)以来3年ぶりで、この間にも香川京子やマキノ雅弘、鈴木清順、川島雄三、成瀬巳喜男など、日本の女優や監督関連の特集も何度か行われたようなのだが、同院のウェブサイト上の上映スケジュールが非常に分かりづらいため(★)、次第にチェックするのが億劫になってしまい、その存在すら忘れかけていたところだった。

《★イベントごとにバラバラのカレンダーが提示されるだけで、月次のイベント・カレンダーのようなものがないのである。ただし英語版には月次のイベント・カレンダーがあるが、各作品の内容などは記載されておらず、やはり分かりづらいことに変わりはない。今回の上映会場には今夏のプログラムが置かれていたのだが、これには月別のカレンダーがしっかり載っており、どうしてそうして簡単に一覧できるようなスケジュールをウェブサイトに掲示しないのか不思議でならない。
 ついでに非常に細かいことを書けば、このシネマテックの夏のプログラムに載っているトリュフォー特集の各作品紹介に記載されている仏語の題名に綴り間違いが幾つかあり、「綴りフェチ」の私としてはすぐさま反応してしまった。そもそも全てのアクセント記号が省略されてしまっているのも残念なのだが、こうした公的なプログラムなどの表記についてはフランス語のネイティヴ・スピーカーにチェックしてもらうなどの「手間」が必要だろう(もっとも仏語を齧っただけの私のような人間にも分かってしまうくらいなのだから、少しでも仏語の分かる人間に目を通してもらうだけでも違っただろう)。原節子特集の日本語タイトルには間違いがなかったのが幸いである。》


 今回の特集上映を知ったのは、たまたまこのサイトのことを思い出して久しぶりに見てみたからなのだが、原節子が昨年亡くなった時に書いた記事(https://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502041506.html あるいはhttps://ameblo.jp/behaveyourself/entry-12502041523.htmlの中の、「新しき土」について書いたもの)でも触れたように、彼女の死に際しての韓国メディアの素っ気ない対応(そして彼女の名前のハングル表記すらバラバラだったこと)を覚えていたので、少し意外に思ったものである。後者の記事で私は、原節子が戦意発揚映画に幾つも出演していたことから、「韓国において彼女の訃報がほとんど報じられなかったことには、彼女が過去の戦争に協力した『悪しき日本人』であることが影響しているのではないか」と書いたのだったが、今回の特集上映のことを知り、それが誤解だったのではないかとも思った(もっとも今回の上映作品には当然のこと「新しき土」などの戦意発揚映画は含まれてはおらず、この特集を企画したのも極めてマニアックなシネフィルたちだろうから、やはり一般の韓国人の意識は韓国メディアの方に近いか、あるいはこの女優のことなど全く知らないというのが実状だろう)。


 今回の上映作品を挙げておくと、黒澤明の「わが青春に悔なし」と「白痴」、小津安二郎の「晩春」、「麦秋(韓国題は「初夏」)」、「東京物語」、「秋日和(韓国題は「秋の日差し」)」、「小早川家の秋」、今井正の「青い山脈(正・続)」、木下惠介の「お嬢さん乾杯」、成瀬巳喜男の「めし」、「山の音」、「驟雨」、「娘、妻、母」、川島雄三の「女であること」、そして稲垣浩の「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」の計16作品である(「青い山脈」は正編と続編を別々に上映)。
 このうち私が未見、あるいはDVD(テレビ放送されたものを録画したものを含む)を持っていないのは、今回見に行った川島雄三の「女であること」だけで、もしこのシネマテックが家の近所にあるのなら、既にDVDなどで見たことのある作品を大きなスクリーンで鑑賞し直してみるのも悪くないと思うのだが、なにせ片道1時間半以上かかるような場所にあるため、今回はこの1本だけで我慢することにした。

 「女であること」は川端康成原作の映画で、1958年の公開であるから、1962年に公開された稲垣浩の「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」を最後に事実上引退してしまった原節子のフィルモグラフィーからすれば、最後期に位置する作品である。原作は未読のため、映画がどこまで原作に忠実なのかは不明であるが、ある弁護士夫婦(森雅之と原節子)と、彼らが家に置いてやっている殺人犯の娘(香川京子)とその恋人(石浜朗)、弁護士夫人の友人の娘(久我美子)、そして弁護士夫人のかつての恋人(三橋達也)などが錯綜する物語である。特に弁護士夫婦の間に割り込み、周囲の人間に媚を売ったり拗ねてみせたりして、平和な人間関係に波風を立てる小悪魔的な存在の久我美子が一種の狂言回しとなって物語が展開していくのだが、この極めてずる賢くもあり同時にどこか抜けてもいるような若い女の役に久我美子という女優が適しているとは思えず、他の俳優陣からも浮き上がってしまっている。またこの作品のタイトルともなっている「女であること」というアイデンティティの造型もひどく類型的でつまらない。
 そもそもシリアスな作品なのか、喜劇なのかも中途半端な上、倦怠期を迎えつつある夫婦の間に無理やり入り込んでくる娘に加え、妻のかつての恋人がからむ四角関係に、死刑判決を受けて控訴審の判決を待つ犯罪者の娘とその恋人との痴情関係など、話をあちこち広げすぎてしまって、最後は収拾がつかなくなってしまっている。フィルムの状態が悪いせいもあるだろうが、各シーンのつなぎが雑なことや俳優たちの演技が時として大仰すぎることなど、演出面や編集面でも粗が目立ち、川島雄三の監督作品の中では決して優れているとは言えない平凡な出来だと言っていいだろう。

 もっとも他の映画評を見ていたら、主演女優の原節子のみならず、脚本(田中澄江と井手俊郎)や監修・原作(川端康成)など、成瀬巳喜男の「めし」と同じ顔ぶれが見られ、夫婦の間に若い女が入り込んできて波乱を起こすという内容にも共通点が多いということなので、今度改めて「めし」を再見してみたいと思っているところである。

 映画の冒頭のタイトル・ロールで、いきなり丸山明宏(現・美輪明宏)が黛敏郎作曲、谷川俊太郎作詞の歌をうたう場面が出てくるのだが(ただし丸山明宏の出番はこれのみ。途中で彼が劇場で歌っている設定にはなっているが、画面には現れない)、個人的にはこれはちょっとだけおかしかった(もっとも丸山明宏と言っても韓国人には馴染みがないだろうから、周囲の観客は皆真面目に画面に見入っていた)。
 また、この作品のなかには「天下大将軍・地下女将軍」と書かれた韓国の守護神(장승=ジャンスン。写真3枚目)が飾られた韓国料理屋と思しき店が出てくるのだが(これを見て、「あっ」と小声をあげている観客がいた)、そこで原節子たちが食べているのは、なぜか大阪風の串カツのようで、その対照の妙(?)が不思議だった。

・「女であること」(川島雄三監督) 2.5点(IMDbなし、CinemaScape 3.3)

 ちなみに同シネマテックは今夏、この他にも、「2015-2016 韓仏相互交流年」を記念して、7月12日から31日まで「映画を愛する2、3のこと、そしてそれを越えて、フランソワ・トリュフォー特別展」(★★ 写真3枚目)と題する回顧上映を行い、8月23日から9月1日までは、ニューヨークを舞台とするマーティン・スコセッシ(★★★)作品を上映する「マーティン・スコセッシ・イン・ニューヨーク」という特集を組んでいる(もっとも私はいずれもほとんどの作品のDVDを持っている上、ハングルの字幕はいつまで経っても目で負うのが困難なこともあって、見に行くつもりはないのだが)。
《★★言うまでもなくこのタイトルには、ジャン・リュック・ゴダールの「彼女について私が知っている二、三の事柄」(Deux ou trois choses que je sais d'elle)の影響が見られる。
★★★韓国のウィキペディアなどでは「마틴 스코세시(マティン スコセシ)」表記だが、韓国映像資料院の2016年夏のプログラムでは「마틴 스콜세지(マティン スコルセジ)」となっている。》


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 この間に読み終えた本は引き続きなし。

 映画の方は、

・「肉弾」(岡本喜八監督) 4.0点(IMDb 7.6)
 初見当時(確か高校生の時)に大いに気に入り、脚本(佐藤忠男編「脚本日本映画の名作 第1巻」)まで買いに走った程なのだが、今見返してみると、反戦映画の名作であるには違いないものの、韓国に来てから見た「独立愚連隊」や「独立愚連隊、西へ」、「戦国野郎」、「血と砂」など、岡本喜八監督による痛快な戦争モノからすると、そのありきたりな反戦メッセージをはじめ、全体的に頭でっかちだと思えてならない。あるいは初見時には、ヒロインである若き日の大谷直子の裸体にすっかり眩惑されていたのかも知れない。

・「「女の小箱」より 夫が見た」(増村保造監督) 4.0点(IMDb 7.6)
 上にも挙げた韓国映像資料院シネマテックにおける「大映特集」で初めて見た作品なのだが、その後DVD化されて改めて見返すことが出来るようになった。「夫が見た」という題名は、実際には作品の内容とは余り合致してはいないのだが(おそらく黒岩重悟の原作では「夫が見る」ことがもっと強調されているのかも知れない。映画版でも夫役の川崎敬三がカーテンの隙間から外の様子を見る場面を無理やり作ったりしている)、ただただ出世することだけに情熱を傾けて家庭を全く顧みようとしない夫(川崎敬三)に不満を覚えている平凡な家庭の美しき主婦(若尾文子)が、カリスマ的な魅力をたたえたヤクザあがりの若き実業家(田宮二郎)によって「女」としての自我を目覚めさせられ、これら二人の男に向かって、「夢(仕事)を取るのか、自分(愛情)を取るのか」と迫るという内容である(そしてそのことは二人の間に一瞬の絶頂感をもたらしはするものの、結局は破滅に追い込んでしまうのである)。
 中でも田宮二郎の愛人役を演ずる岸田今日子が、男の夢の実現のために自分の体まで売ってみせる「狂気の愛」を体現してみせ、単に身勝手で愚かしいだけにしか見えない主演の若尾文子を完全に食ってしまっている。山内正によるけだるく過度なまでに悲劇的な音楽が、このいささか甘ったるい内容の作品にフィルム・ノワール的な陰翳とサスペンス感とをもたらして、作品全体に漂う頽廃的なトーンを支配している。