わたしの自分史から、自分軸へと変化した過程を書いてます。

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パリで結婚生活スタート

住むなら、イギリスかドイツ、

スイスがいいな〜と思っていたのに、
まさかのラテンの国。

わたしのもともと持っていた、


「自分の持っている常識を

全部ぶち壊したい!」の野望。

日本からは、地理も歴史も文化も

遠く離れたフランスに住むことは、


まさに、自分がしたかった常識を

ぶち破ることになったのです。

なぜ、イギリスやドイツやスイスに

住むことにならなかったのか?

 

その答えは、

ずっとあとになって、わかります。

 

イギリスやドイツ・スイスは、

わたしのそれまで持っていた

常識の延長線上で、

まだ理解できる国でした。

 

フランスは、

スペイン・イタリアと並ぶラテン国。

 

あまりにも、自分の考えと違う、

その人たち、慣習、国を理解するには

猛烈な壁を乗り越える必要があります。

 

あまりにも違うものを受け入れるには、

自分の器を広げなければできない。



フランス語は、住み始めた当初、
挨拶程度しか知らなかったので、
街ですれ違う、3歳児にも

負けている感じでした。

英語で話してもフランス人には通じない、

自分の思いを伝えられないことに
はじめはすごくストレスが溜まって。

 

フランスは個人主義であり、

主張するのは当たり前、

できなければ、泣き寝入りするしかない。

理不尽なことも多い。

 

「フランス語でケンカできるように

ならなければ、一人前にはなれない」

英語で怒鳴っても通じず、

彼らはぽかんと口を開けており


パリに移り住んでからしばらくは、
現地のフランス語学学校に通って、

猛勉強の日々。


パリにはたくさんのヨーロッパの学生や、
アメリカ人、ロシア人、また中国人、

ベトナム人など
世界各地からの留学生が来ていました。

ベビーシッタービザというのがあって、
ベビーシッターをしながら、

フランス人の家族の中で一部屋もらい、
フランス語を勉強している、という
ドイツ人や東ヨーロッパから来ている人も

けっこういました。


わたしは、

日本に両親を置いてきてしまった・・・と、
ヨーロッパに住みたい気持ちは

ずっとあったものの、
パリに飛ぶ飛行機の中では

ずっと泣いていました。

パリに着いてから就職活動をする夫が、
なかなか希望の仕事に就けられず、
お互いストレスが溜まってケンカ。


始めは、パリに着いたら夫の転職活動で

企業のインタビューがあったので、


交通の便のめちゃくちゃいいパリ5区の、
ノートルダム寺院の目の前の

一間のアパートに住んでいました。


パリに着いてからすぐに円安が進み、
日本の貯金が、

現地のユーロで引き出すとすごく高い・・・

一間のアパートでケンカすると、

わたしは夫に顔面パンチを食らわされ、


せっかく親を残して日本を離れてきたのに、

こんな仕打ちを受けて、
それでも行くところがない。

日本から連れてきた

愛猫のごはんを探すにも、
スーパーでフランス語がわからない、

読めない、


店員に聞いても英語を理解してもらえない、

とけっこうつらい思いをしたと思います。

夫の仕事が決まってから、
同じパリ5区のJussieuというところに
もう少し大きいアパートを借りました。


語学学校では、生徒はみな移民だったので、
仲良い子もできつつ、


また、本音を言い合い、

よくケンカする夫と


“これが幸せなのかな?”と思いつつ、
なんとか慣れて生活していたと思います。



パリはとにかく物価が高く、
始めは20区にある授業料が低めの

語学学校に行っていたのですが、


途中でパリ中心部にある、

アリアンス・フランセーズに変えました。

そこでは、クラスメイトみなで仲良くなり、
授業が終わると近くのカフェに行ったり
みんなでリュクサンブール公園に行ったり、
夜遊びしたり

ホームパーティーで一晩飲み明かしたり、
よく遊びました。

一度、ロシア人のクラスメイトの

アパートで飲み明かした時、
見たことのない外国の珍しいお酒があり


ちゃんぽんしている内に、

気づいたら記憶を失くしていて
起きたらベッドに

何人もで川の字になって寝ていた、
ということがありました。

目が覚めたらすごい頭痛。
しかも、わたしは無事でしたが、
遠くのほうでクラスメイトの二人が・・・
しようとしている最中だった!

ということも・・・

かなりのカルチャーショックで、
フラフラしながら

急いで帰ったのを覚えてます。

 

 

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