わたしの自分史から、自分軸へと変化した過程を書いていきます。

ご参考になったら嬉しいです☆

 


和食と台湾料理の子供時代


幼少期、両親がケンカばかりしている中で
「愛って、どこにあるの?」
と思って育ちました。

父は自由奔放で不在がち、
母は、妹とわたしを一人で育てているような感じで
父の不在や、浮気に悲しんでいる母を見て、

「お父さんはアテにならないから、

わたしがしっかりして
お母さんを支えなきゃ」

わたしは、小さい頃から、

色んなことに興味を持ち、
週に3、4日は習い事、

自立心の強い長女気質でした。


わたしの父は在日台湾人で

小さい頃から家庭内では、
母のつくる和食に、

父のつくる台湾家庭料理が並んでいました。


父の会社の集まりに家族で行けば、
回っている丸いテーブルに

どっさり並んだ中華料理、


母と父の家庭での諍いも、

男と女の違い、だけではなく、
文化の違いも、今考えると

多かったかもしれません。


小さい頃、何度か台湾に行き、

育った環境で、自然と

外国というものを身近に感じていたためか


小学生の頃から公文で英語に通ったり、と
外国に対する興味は強かった方だと思います。

高校生の頃、洋楽が好きで聞いていて

 

「同じリンゴ、Appleと言っていても、

この人が歌っているリンゴは

形や色、大きさも違うかもしれない」

 

と感じ、

現地で見たい、

自分の持っている常識を覆したい、

と思いました。

 

高校時代にアメリカ留学を考えましたが

その時は、新学期の時期がずれていて、

すぐには行けませんでした。

 

オーストラリアなら行けた、でも

うーん アメリカがいいなぁ、

と思っていたら、

日本で好きな人ができて

結局、行きませんでした。

 

高校2年の時に、

初めて大好きな人との別れがあり、

 

「頼りになるのは、消えないのは自分だけ」

 

そう思い、目の前にある受験勉強に

打ち込みました。

 

入ったのは法学部政治学科。

ふと気づいた時には、

心理学や哲学に興味がありましたが

文学部は就職に潰しが効かない、とのこと

また、

予備校の、哲学科の大学教授を務めていた

現代文の講師から、

 

「哲学科には君みたいな子はいないよ〜」

 

わたしは、人前では快活で

ハキハキ話す明るいタイプ、

哲学科の先生からそう言われ、

 

「わたしは気が変わりやすいから、

どんな職業にでも就ける、潰しのきく

学部に行っておいた方がいい」

 

と、法学部を選んだのでした。


大学卒業後に、一度、
イギリスの大学に留学を考えたものの、
せっかく日本でがんばって

勉強していい大学に入ったし、
自分の親のことを考え、

「日本で就職したほうがいいだろう、
行きたかったら、

働いて、そのあとで行けばいい」

と、あきらめていたんですよね。

また、ポンドは高く、
自分のその時の貯金では一年が限界かな、

というところでした。


新卒で入った会社を7ヶ月で退社

 

大学での就職活動後、
「夢は実現する」という会長の本を読んで
入社した一部上々起業の会社。

一般職では嫌で、

総合職として入社しましたが

希望とは全く関係のない部署に

配属されまくり、
「ええ?」という感じ。

また、実際入社すると、
思ってもいなかった古い会社体質で、

体育会系の部署で、

先輩たちが連夜飲み&早朝まで

カラオケをするのにつき合い、


朝目が覚めたら、

自宅の玄関の廊下で倒れて寝ていて、
急いで化粧を落とし、

化粧し直して会社に行く・・・

こんな生活を続けていたら

自分が保てない、と
あっさりと7ヶ月で

会社を辞めることを決意。

同期・先輩たちは唖然、

自分でもびっくりでしたが、


会社員の体質は自分には合わない、

わたしには、自由が何よりも大事、

ということが
社会に出てすぐにわかった出来事でした。


その後、自分に合っている会社・仕事を

転々と探し、
派遣社員、契約社員、


そしてアメリカ・ベンチャー企業での

在宅ワークで、
自分の望んでいるワークスタイルが
ちょっと見つかったかな?と思いました。

 

 

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