こんにちわ ゆうじです。
高畑勲の「平成狸合戦ぽんぽこ」の解説で、「ブレードランナー」との共通点を見つける岡田斗司夫は狂ってると思う(笑)
さすが自称「サイコパス」。
解りやすく云うと
「人間になりたくて人間に拒否されて、やがてテロに走ったり、人間の中に紛れて暮らすことを選んだ人間じゃないもの」が、
「レプリカント」だったり、「狸」という構図が同じということ。
人間になりたいという憧れの描き方は、天と地ほど違いますけどね。
高畑勲って「じゃりン子チエ」は好きだったけど、「火垂るの墓」は気持ち悪くて見れなかった。
「じゃりン子チエ」と同じように、笑える「平成狸合戦ぽんぽこ」は好きだったのだが、所々に疑問がわくシーンが無くはなかった。
高畑勲のモデルにした役を朝ドラ「なつぞら」で、中川大志が演じていて、めんどくさい人として描かれていたが、作品を通して、その意味がようやく理解できた気がする。一緒に仕事したくないわー。
一見、自然保護アニメをファンタジーで見せるその裏で、アンチファンタジーをやっている。
実際に当時、高畑勲はファンタジーが多すぎることを甘いもの中毒で人工甘味料の甘いものまで欲しがる人にただ、与えてるように例えて、
過剰にありずぎるファンタジーは、あふれすぎて害毒だといってたらしい。
終盤にジブリのキャラも登場する妖怪大作戦で、たぬきたちは多摩ニュータウンを作ることを阻止しようとするが、結局人間にとっては面白いねで終わってしまった。
それは、トトロやナウシカやラピュタで子供たちに野山で遊んで、大地とともに暮らそうと云っても、結局映画館で見て終わり、子供にDVDを与えて、大人しくなる子供に親が毎日見せることになってる現実と同じだと。
ある意味、ジブリの全否定なのだが。
押井守が、この映画は自然保護がテーマなのになぜ自然を美しく描かないのか?と批判したそうだが、その批判が的外れでむしろ、意図的にそうしてるとかね。
自然を美しく描くというのは高畑に云わせれば、人工甘味料であって、そのまま描いて美しいし、それで美しいと解らないならそいつの見方が悪い。世界の絶景を見てジブリみたいと云って喜ぶような自然を捉える方が、本当に自然を感じることなのか?
この裏には、ジブリが大衆に嘘の美しさというのを与えすぎたから、ジブリとの比較でしか自然を語れなくなってしまった。という自己批判でもある。
高畑勲が、宮崎駿を全否定してると思うのだが、説教みたいなもので、相手にしてくれないと思っていた先輩にちゃんと怒られてメッセージを貰えて宮崎駿は、うれし泣きで泣いたという岡田斗司夫の解釈。
長い付き合いがあっての関係性は、確かにあるかもしれないが...
そして、テーマの一つを認識論だという所で、今度見る時は気にして見ようと思うのが、
「ハイゼンベルクの不確定性原理」をアニメで展開しているという。
タヌキは、人が化けると思って見ていると化ける。という話。
冒頭で、リアルな狸を描写しておいて、
「人が話しかける」ことによって、つまり
人間が、化けるんじゃないかと思うと化ける。
人間が、喋るんじゃないかと思うと喋る。
それが、誰も信じなくなることで、滅びつつあるただの野生動物に戻ってしまう。
結局「ハイゼンベルクの不確定性原理」=「シュレーディンガーの猫」であってるかな?
多摩丘陵が、きれいに復元するシーンがあったと思ったあなた、あれたぬきのきんたまが化けたものですよ。という話も後半にしております。
ではでは、このへんで
