こんにちわ ゆうじです。
ヴィパッサナーの意味が、「明確に詳細に観察する」であれば、
何のために、「明確に詳細に観察する」するんでしょうか?
マインドフルネスの説明に良くあるストレス軽減とかのためなんでしょうか?
原始仏教のサイトを見ると、そうではないようです。
人間には、眼耳鼻舌身意という認識が起こる器官が六つあります。眼は物質的な肉眼です。それに色【しき】(光)という物質が触れるのです。触れたものを感じるのです。感じたことは、「見えた」という認識(眼識)になります。そこで、自我というモノノケが割り込んで、「私が見た」「私に見えた」という認識(捏造)が起こるのです。その誤りは、ナノ秒の速さで起きてしまうのです。
原始仏教の場合、悟りの先に解脱という大目標があって、段階の目安があるのか奥歯にものが挟まったような感じがします。
大目標の前に、正しく物事を見れていないと駄目だよね。ってことでしょうか?
あまりに早い速度で認識(捏造)が起こると云われても、信じがたいと思いますが、こういうこともあります。
緑内障という視野が徐々に欠けていく眼の病気がありますが、
多くの場合で視野が欠けてもかなり進行するまで自覚症状はありません。
これは、徐々に欠けていく視野をもう一方の目が補ったり、脳がその部分のイメージを補正するためです。
だから進行してしまい、人や物にぶつかることが増えて変だなと思い病院に行って発覚することもあるそうです。
玄侑宗久さんの解説を思い出します。
結局、我々の脳が、記憶装置として、個人的な体験や思い込みを常に蓄えているということ。そこに蓄えられた記憶が、ものを見る時も人の話を聞くときも、常に作動しているわけです。これは人間の脳の優れた部分でもあるのですが、不自由なのは記憶装置の部分と五感を通して見たもの聞いたものを分析する部分の働きが分かれていないことです。五感を通したものは、すでにそのものとは違うフィクショナルなものになっている。感覚(仏教でいう知覚)と云われるものは、どう転んでも不完全なのです。
どうしても、補正や捏造は起きてしまうが、ヴィパッサナーをやることで自動行動や、
その人のエゴ固有の信念によるある種の印象操作に気づきやすくなったりします。
例えば、親への反応中に起こる過去の記憶の走馬灯とかです。
あの時に、あんなひどいことをしたとか、こう発言したとか、一瞬のうちに自分の中で被害者弁護団が結成されたりしてませんか?
一瞬のうちに、ひどい判決をくだしてないですか?
そういう気づきですね。
そういう捏造や誇張が事態を複雑にしてないでしょうか?
ではでは、このへんで