こんにちわ ゆうじです。

 

原始仏教の瞑想法のつづき。(私の妄想憶測として読んでちょ)

 

身受心法・身体の観察・入息出息・瞑想方法 大念処経①ほぐし読み ブッダの教え

ここで見つけた瞑想について、まず仏教用語で心が折れますが、いろいろ解説記事ありますので、そのまま読み進めます。

下の図解で、共通概念として、感覚の仏教用語の説明があります。

「図解②」大念処経(だいねんじょきょう)

 

この中に般若心経の中で、本当はない実はないのと云われてしまう六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)の解説があります。

 

私たちが世界を認識するときに使う感覚の定義ですね。

いわゆる五感(眼耳鼻舌身)に、意識を加えて六根としています。

主体を六根、客体を六境として、認識を六識と区別しています。

 

それぞれ、最後の意、法は、分けて、五根・五識・五境としてる部分もあるみたいです。

その方が解りやすいかもしれませんが、これを入れているということは感覚として認めて含めているということです。

こころ、意識を説明する語彙の不足の問題でもあるかも知れません。

下記のサイトでは、意を意識、法を思考としています。

 

説明自体は、こちらの記事の方が解りやすいかも。

こちらは感覚器官を六根、対象を六境とし、認識を六識としています。

六根(眼耳鼻舌身意)と六境(色声香味触法)と六識の意味

 

その前のサイトを読み進めると、六根を六処として観察の対象にするのですが、この観察はチェックと置き換えても良いかもとして読みました。

 

眼、色の部分のみ抜粋します。

 

を知り、色かたちの色を知り、その二つによって生じた束縛を知るのです。
まだ生じていなかった束縛が生じると、生じるままにその束縛を知る。
すでに生じている束縛が捨てられると、捨てられるままにその束縛を知る。
すでに滅ぼされた束縛が未来に生じることがないようにと知る。

 

「束縛」というのは、信念による抵抗、歪みのようなものだと思われます。

ブルースが云っていた信念が瞬間的に歪みを作るので気付けない話をしていましたが、それと同じ話のようです。

各感覚器官に、信念のゆがみがないか、ないことをチェックしているかのように読めませんか?

 

別なサイトの記事を読んで、ますますそう思いました。

瞑想の所では、因縁とありますが、前段では自我というモノノケの割り込みからくる錯覚としています。

ただし、これは非物質の話ではない(笑)

さらっと意(心)を感覚器官の一つとし、かつ物質界での知覚の歪みがあることを云っています。

 

『自我の錯覚を破る「六処の世界」の観察』アルボムッレ・スマナサーラ長

 

前段の抜粋

なぜ、「自分がいる」という自覚があるのでしょうか? どのようにして、この自覚が起こるのでしょうか? 「自分がいる」とは、一種の認識です。認識に言葉はいりません。この肉体のなかで、認識が起こるのです。人間には、眼耳鼻舌身意という認識が起こる器官が六つあります。眼は物質的な肉眼です。それに色【しき】(光)という物質が触れるのです。触れたものを感じるのです。感じたことは、「見えた」という認識(眼識)になります。そこで、自我というモノノケが割り込んで、「私が見た」「私に見えた」という認識(捏造)が起こるのです。その誤りは、ナノ秒の速さで起きてしまうのです。

 

以下、眼の部分を抜粋

*眼の世界の観察

この眼【め】は、変化するもので無常です。
この眼は、私ではありません。
因縁によって変化するので、私のものでもありません。
私のものにならない眼に、執着しないように励みます。

眼に触れる色【しき】という見える対象は、変化するもので無常です。
眼に触れる色という見える対象は、私ではありません。
因縁によって変化するので、私のものでもありません。
私のものにならない眼に触れる色という見える対象に、執着しないように励みます。

眼に見えるものが触れることによって、眼の感覚が生じます。
眼の感覚は、変化するもので無常です。
眼の感覚は、私ではありません。
因縁によって変化するので、私のものでもありません。
私のものにならない眼の感覚に、執着しないように励みます。

眼の感覚から、「見えた」という眼識【げんしき】が生じます。 
この眼識は、変化するもので無常です。
この眼識は、私ではありません。
因縁によって変化するので、私のものでもありません。
私のものにならない眼識に、執着しないように励みます。

眼識から、思考・妄想・愛着・怒りなどの煩悩が生じます。
この眼識から生じる煩悩は、変化するもので無常です。
この眼識から生じる煩悩は、私ではありません。
因縁によって変化するので、私のものでもありません。
私のものにならない眼識から生じる煩悩に、執着しないように励みます。

 

ではでは、このへんで