こんにちわ ゆうじです。

 

前回のつづき、玄侑宗久さんの「荘子」から渾沌と感覚の話です。

 

まず、渾沌の話のおさらいです。

原文は、たったのこれだけです。

南海之帝為、北海之帝為、中央之帝為渾沌
儵与忽、時相与遇於渾沌之地。渾沌待之甚善。
儵与忽諜報渾沌之徳曰、

「人皆有七竅、以視聴食息。此独無有。嘗試鑿之。」

日鑿一竅、七日而渾沌死

 

南の海の王である儵(しゅく)と北の海の王である忽(こつ)が、中央の国の王、渾沌に会いに行った。渾沌は大変良く持て成したので、儵と忽はお礼に「人には皆、七つの穴があって、それで見て聞いて食べて息をしている。渾沌には一つも穴がないので、穴をあけてあげましょう」と言い、一日に一つずつ穴を開け始めた。ところが七日目に七つ目を開けたところで渾沌は死んでしまった。

という話です。

これだけの話なんです。

私は、てっきりもっと話が長いものと思っておりました。諸星大二郎の「無面目・太公望伝」の無面目に渾沌の話があるのですが、こっちのような話と勝手に考えておりました。

ウィキペディア 無面目・太公望伝

荘子も寓話が、2次創作されるなんて想像の外ですよね。こういうのも真意を伝える難しさでしょうか(笑)人は、伝える側が伝えたいことを受け取れるわけではなく、受け取った側の記憶や体験をもとに解釈してしまう。これは余計な話でした。

 

玄侑宗久さんの渾沌の解釈に戻ります。以下の青字は、引用です。

私(玄侑宗久)は、かつて、これを読んだとき、儵と忽が好意から1日に一つずつ穴をあけ、それを7日続けたということは、一つ明けるごとに渾沌は次第に元気になったのだと思い込みました。もしかすると、六つ開けたとき時、渾沌は、最も元気だったのではないか、と。もしそうであったのなら、それは例えば目が見えない人独特の耳の良さ、あるいは嗅覚の発達などというテーマと重なるのかもしれません。使われなくなった脳の視覚野の細胞が、聴覚や嗅覚などのほかの感覚の処理に使われ、そちらの機能が高まるということが実際にあるそうなのです。(これも、玄侑さんフィルターっぽい話なので、本題はここから)

しかし、一方で、ここで語られていることは五感の否定でもあります。感覚するための穴をあけたら、最終的に渾沌は死んでしまったわけですから、とするとこの話の命題は「感覚を信じるな」ということでもあるとも云えそうです。

現代の私たちは、感覚を信じるなと云われてもすぐには同意しづらいでしょう。例えば、精神を病んだりすると、「思考しないで感覚に戻れ」と云われたりします。しかし、渾沌は感覚を授けられたら命が終わってしまった。それは、道に従うあり方ではなかった。つまり、感覚は無為自然ではなく「人為」だったのです。

この感覚というものを人工物、あるいは捏造物と見なすのは、老荘思想の特徴だと云えるでしょう。またインド伝来の仏教では、さらに感覚と知覚を区別し、知覚には「私が混じる」、つまり感じたとしてもそこには「私」の都合が加味されているから、ありのままではない。と考えます。

(ここから、結論。ブルースが云う「解釈者の覆い」とほぼ同じ。)

老荘と仏教の見方に結論として云えるのは、結局、我々の脳が、記憶装置として、個人的な体験や思い込み常に蓄えているということ。そこに蓄えられた記憶が、ものを見る時も人の話を聞くときも、常に作動しているわけです。これは人間の脳の優れた部分でもあるのですが、不自由なのは記憶装置の部分と五感を通して見たもの聞いたものを分析する部分の働きが分かれていないことです。五感を通したものは、すでに道に従う命そのものとは違うフィクショナルなものになっている。感覚(仏教でいう知覚)と云われるものは、どう転んでも不完全なのです。むしろ、ありのままの命を殺す方向に動く。そのことを端的に表したエピソードが、この「渾沌七竅に死す」だと云えるのでしょう。

儵と忽は、良かれと思って、渾沌に七つの穴を開けました。しかし結果的にそれは、稚拙な分別や感情的な判断が、命そのもの、渾沌とした命の自然を殺すことに繋がってしまいました。

 

途中の五感の否定は極端に感じますが、感覚と知覚を分けると知覚したものは捏造を前提にしないと危険だと云う事でもあります。非物質の知覚を知覚者と解釈者の話で、説明したブルースを褒めたたえたくもなります。

 

そして、ブルースは「解釈者の覆い」の前に、信頼についてまず語りました。

仏教では、その代わりに自己のエゴを抑制させたうえで「自灯明」を語っているのではないかと夢想(曲解)しているところです。まあ大前提として、ブルースの目的は非物質の「死後探索」だから、比較が間違っているのだけど(笑)

 

仏教でいう感覚の話は、こちらを

原始仏教の瞑想法の感覚の定義

 

ビッパサナー瞑想(実践)によって、感覚と知覚を観察し、その捏造に気付くことにより物事の正しい認識を常に得ようとしているのでしょう。こっちで面白いのは、意(心)を感覚器官として認めてもいるところです。それは非物質の知覚を行う感覚器官としてです。

 

ではでは、このへんで