映画 劔岳 点の記を見た。
映像の中の雲海や雪渓は、羅臼岳を思い起こさせる。
羅臼岳は、劔岳ほど難しい山ではないが、この辺では一番標高が高く、歩く距離も長い。
羅臼岳には、三度登った。
一度目は、斜里側から登った。
頂上から遠くに羆の親子を眺めた。
良く晴れた日で、さほど暑くもなく、登山日和だった。
二度目は、羅臼側から登った。
なんと往復11時間もかかった。
人気があまりなく、道端も狭い。
時折、登山道が不明瞭になり、案内してくれる人がいないとたぶん無理だった。
頂上付近ではありえないほどの突風に見舞われた。
斜里側からの合流地点では、ほとんどの登山者が引き返した。
私たちは降りてきた人たちが、ここからは岩場の影になるから風の影響はさほどないという言葉を信じて、頂上を目指した。
雲に覆われて、まったく景色が見えなかった。
それでも帰り道には、ものすごいスピードで雲が去って行くのを見た。
足を止めて空を仰ぎ見ると、雲が動いているのに、自分が動いているような錯覚に陥った。
三度目は、斜里側から。
今年の7月、登山開きの日だった。
まだ初夏だというのに、まるで真夏のように暑い。
昼の気温は、登山口で36℃を記録したという。
行き帰りで、4ℓの水が空になった。
とにかく休んでばかりで、10時間もかかった。
予定よりも3時間もロスしてしまった。
まさかあれから一ヶ月後にあんな事件が起こるとは想像もしなかった。
ー雪を背負って登り、雪を背負って降りよ
劔岳を真に開山すれば
山は神となり、仏となるー
山岳信仰をする村人たちが、劔岳を登ることを禁じているのに、なぜ行者は、"真に"開山することで、山は神や仏になると言ったのか。
行者は、山は安全な場所からただ眺め、仰ぎ見るだけでは、人は本当の神や仏を崇めることにはならないと言いたかったのではないか。
気が遠くなるような道のりをそれでもただ一歩、ただ一歩、慎重に確実に足を進める。
地味なその作業に集中するほどに、思考は言葉を失っていくのだが、自分は地面や風や木々や花と同じになっていくような不思議な感覚に陥る。
ようやく到着した山の頂上から地上を眺めると、街はひどくちっぽけで、脆弱なものに見えた。
同時にあの小さな一歩の積み重ねが、この高さまで連れて来たことに驚く。
ここまで私を連れてきたのは、自分の意志が宿る頭ではなく、この足。
そして足を前に進めたのは、あの山の上へと続くこの登山道。
吹雪がひどくなってきても、洞穴のようなところで念仏を唱え続けていた行者を柴崎と長次郎たちは、半ば強制的に助ける。
下山してから行者は、なぜ助けた。と彼らに問う。
あのままだと死んでしまうからだ、と彼等は答える。
なぜ、決めつける。と、行者。
どんなことでもなせばなる。自信を持つことだ。と、続ける。
測量士として劔岳登頂を命令された柴崎と、山岳信仰に根ざした村で生活する長次郎。
長次郎は、山登りの勘が鋭い人物として、柴崎らが登頂を果たすために重要な役割を果たしたが、いよいよ山頂という場面で、柴崎たちに先に行くように、自分は案内しただけで頂上に行くのは申し訳ない、と言う。
しかし柴崎は、彼を仲間だから、一緒に登頂しないと意味がないと諭す。
意を決して、登り始める一行。
長次郎は、山を信仰する者として、やはりそこには足を踏み入れてはならない、と躊躇ったのだろう。
けれども、信仰とは、何か。
行者が言った言葉の意味は。
あの雲の上に降り立ったとき。
視界の中に羅臼岳以上に高い山は見当たらなかった。
私はまるで神様の視点に立ったような気分になる。
それは、街を見下すことではなく、街を見渡す視点だった。
人は、地図の中の矢印に過ぎない、と言ったのは養老孟司さんだ。
我思う故に我あり。ではなく、地図の中にある現在地に過ぎない私。
それは、人は何者であるかを知りたいがために地図を作るのだが、その先は、何者でもない私を知る道程に繋がっているようにも思えた。
人が生きていることに意味はないけれど、人は生きていることに意味を作ることもできる。
神は、そういった両犠牲そのものなのだろう。


