びっくりしたのは、この剥がれた爪が伸びる速度が、他の指の二倍ぐらい速いことだ。
まだ完全に爪が剥がれる前なんて、爪が1mmぐらいしか皮膚についていなかったのに、その先の爪の白い部分が毎日、ものすごい速度で伸びているのが目で見てわかった。
もう死んでしまったと思われる剥がれた部分の爪は、その1mmの皮膚から栄養を吸い取って、早く患部を覆おうと必死だったのだ。
人が意識して動かせる肉体の部分は、ものすごく限定的だな、と改めて認識した。
特に手(特に指先)は、一番使用頻度が高く、身体の中でも一番、意思に忠実で、繊細に動かすことができた。
なのに爪は、伸びろ!と頭で思っても、意思で直接伸ばせているわけではない。
だからなのか、意思を介さない部分でどこよりも早く修復しようとしている様子がとても健気に思えるのだった。
私はまるで、身体に自分ではないものを飼っている気分になる。
普段は皮膚も血液も内臓も、新陳代謝を繰り返して、古いものを捨て、新しく作り直しているのに、その様子は目では見えない。
だから、こうやって、爪が目に見えて意思など関係なくぐんぐん伸びていくと(…特に痛みを伴って不便であればあるほど)、自分の身体の司令塔だと思ってきた脳=言語を伴った命令系統が、いかに限定的で、瑣末なものであるのかを思い知るのだ。
こう考えていると、やっぱり人間よりも身体的能力の高い動物たちのことを考えざるを得ない。
頑丈な牙、爪、寒さから身も守る毛皮、鋭い嗅覚。
魚や鳥に至っては、地球の磁場を感知する機能すらあるのではないかと言われている。
人間は、論理的思考とか理性とかを重視して、あらゆる事柄を言語化し、危険を予測し、頭で解決しようとするが、そもそも他の動物たちは、その行程がほぼないから、脳以外の全ての器官が脳と同等であるように思える。
言語のない赤ちゃんを見ていると、そんな動物たちの姿を思い起こさせた。
未来や過去を持たない赤ちゃんは、たった今、現在に対しての快・不快に忠実だ。
特に視覚は明瞭ではなく、世界はそれ以外の器官によって、感知されている。
赤ちゃんは、言葉が発達して行くに連れ、自分と自分以外の存在を分け始めた。
全てのモノには名前が付けられ、やがて物事には因果関係があるのだと理解するようになる。
言語は文字に置き換えられ、広い範囲まで伝達されるようになった。
同時に自分という存在は、世界から分離していく。
世界から切り離された自分が、最初に感じた感情は何だったのか?
それは、不安ではないのか。
不安になったとき、私は動物のことを思う。
感情の種類すら、言語化されて分割されて、名前が付けられた人間は、不快さと快適さを明確に分けるだけでなく、善悪にすら分けてしまった。
人間と動物を隔てる決定的な違いは、感情の有る無しではなく、善悪の概念の有る無しのようにも思えた。
怒ったり、悲しくなったりするのは、不安だからだ。
不安が人間の脳をこんなにも発達させた。
剥き出しの肌も、ひ弱な爪のような身体的な脆弱さは、直立二足歩行で得た視覚に頼る意識の時間化と空間化で、過去と現在と未来という幻想を生み出した。
それでも私たちは、動物だった。
意思も肉体も本来、分けることなどできない。
天才って、理性的で論理的であるからこそ、人間の動物的側面をことさら大事にしているんだな、と思う。
あらゆることを分化して、分析した暁に、結果をさほど重視していないのだ。
好きだから、やる。
楽しいから、できる。
誰のためとか、役に立つとかなんて、さほど重要ではなく、物事の真理は、過程にこそあるのだと。
私の指先を守ろうとする異常な速さで伸びる爪は、私の意思とは何も関係がない。
そのことに安堵したり、頼もしさを覚える。
私は私の身体を心から信頼している。
つか、最近はカバノアナタケを信頼していて、風邪なんて、絶対ひかない、まだまだ病気なんてしないと念じてすらいる。
したらしたで、その時存分に不安になり、恐怖することを自分で赦すと思っている。
家族たち(それぞれのパートナー含め)私のプラセボ効果とも言えるカバノアナタケ効果を信仰しはじめ、全員、カバノアナタケを持ち帰った。
カバノアナタケは、効くと信じるから効くんだ。
カバノアナタケは、自分の免疫を信じる道具に過ぎない。
娘は、看護師のくせに(だからか?)プラセボ効果はマジだからね。思い込みって侮れない。と言って、私の手作りゆず茶で割って、ゴクゴク飲み続けていた。
