身体の観察 | 想像と創造の毎日

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自分で撮影しております。

  最近は、月曜日が一番キツい。
  週明けで仕事が憂鬱だからではない。
  週末の畑仕事や登山が今の体力と筋力が落ちていて、天候の不安定な時期が苦手な私にとっては明らかにオーバーワークなのである。
  緩やかに仕事をこなしながら水曜日までが休暇であり、木曜日から徐々にトレーニングをやり直すというルーティンである。

  気付いたことは、筋肉痛や歯痛は、風邪を引く仕組みと同じなのではないか?と言う事である。
  肉体は恒常性を保つために常に働き続けているのだが、ある場所に急に負荷がかかるとそこを修復するために他の守備が弱くなるらしかった。

  今年はいつもよりスタートからレベルを上げて山登りをしたからなのか、修復にいつもより時間がかかるらしい。
  最初は太ももと共に歯痛があったが、今は肩の痛みと腰である。
  月のものにも重なった影響も大きい。 
  実は登山をしてから、月のもの…生理はそれまではわりと不順であり、30日周期以上遅れることがざらだったのだが、今はちょうど28日周期でピッタリ予定通りに来るようになった。
  しかもそれまでは、ダラダラと一週間は続いていたのかだが、今は三日でだいたい終わる。
  一日目から出血が多く、子宮の痛みが後陣痛かと思われるぐらいに激しい。
  しかしその痛みは、耐えられないほどではない。
  むしろ、その多い出血の時に登山をすると、その痛みのことは不思議とまったく気にならなくなるのである。そして、動けば動くほど、一気に出血し、早く終わる。
  この効果は、痛み止めを凌ぐ。
  毒を以て毒を制す。ではないが、痛みにはそれ以上の苦痛が有効なのだ。
  つまり、生理痛は他の原因がなければ子宮の収縮による痛みであり、それ自体は後陣痛と同じように悪いものではない。なにしろ、登山中はそれ以上に全身を使うため、そんな痛みのことなど構っていられない。
  昔は、生理をコントロールできたと聞いたことがあるのだが、その理由がわかる気がするのだ。
  お小水(?)のついでに血も流すことが出来た。
  だから、ナプキンなどいらないのだ。
  筋力も現代人よりも発達していただろうから、意識的に止めることが出来たんじゃないだろうか。
  生理が始まってからちょうど二週間後に排卵が来る。しかも卵巣は左右交互に排卵するという。その感覚もわかるようになってきた。
  粘質のおりものが増え、むくみやすくなり、体重の増加が見られ、時々どちらかの卵巣辺りがチクッとするときがある。
  そこからちょうど二週間後に再び生理は訪れる。
  その周期はまさに月の周期と同じだ。
  生理が遅れるときは、排卵周辺時期にあまり運動をしなかったとか、体調が悪かったとか、精神的に不安定だったという理由が思い当たった。
  排卵が来たら、生理が来ないということは絶対にになかった。

  排卵も生理も意識し過ぎると痛みは増す。
  そこに気を取られない程度に俯瞰的に身体の様子を観察するのが良い。
  
  風邪の主な症状は、喉の痛み、鼻水だが、筋肉痛歯痛は筋肉の風邪のようなものと理解している。

  みーちゃんも歯が痛いと言っていて、やっぱり!と確信した。

  たぶん肉体を脅かすような材料は常に身の回りにあるのだが、その影響を受けるが受けないかは、自分の肉体環境によるものなのだ。

  どの動物にも特有の病気があるらしかった。
  例えばセミにはセミに寄生する虫がいる。
  人間だって老化して、死ぬ原因は肺炎が多いと思う。ガンだったとしても、ガンそのものが人の命を奪うのではなく、それによって免疫が低下したことによるものなのではないだろうか。

  もし死がなければ、新しい命は生まれない。
  ひとつの種だけを繁栄させれば、命は循環しない。
  だから寄生虫などは、必要悪かもしれないと思うのだ。
  もちろん、それを避けるために医学が発達した理由は人情的には理解できる。 

  しかし死はやっぱり避けられないし、なくしてはならないものだと私には思える。
  私の命を繋げてくれた先祖が死ななければ、私は生まれてはいないし、生きてはいないのだ。
  
  そして、細胞たちは死なないために今を懸命に生きている事実だ。
  
  寄生虫やウイルス(と今は呼ばれているもの)も、命を調整する役割を果たしていると思える。
  もしそれらがなければ、死は新たな命を生み、育むことができないだろう。
 
  鳥や鹿は土に還らない。
  虫も、木や草も育たず、花は咲かず、実もならない。
  
  風邪の時も筋肉痛のときも休むしかない。
  身体に起きている炎症は、傷付いた細胞の修復作業である。
  痰や鼻水は、(そしてもしかしたら下痢も)細胞が闘った際に出たゴミの排出だから、無理に止めてはならない。
  痛みは休め!という各部署からの命令だ。
 
  売り切れてしまってたった2本しか売ってなかったメロンの苗は、どっちも途中から折れていた。
  大丈夫じゃないかもしれないが、とりあえず植えてみた。
  私がなんとか真っ直ぐになるようにと触りまくっていた私に師匠は触るな!と叱った。
  枝で支え、しばらく待てば大丈夫だ。あまり触ると雑菌が入る。と教えてくれた。

  一週間ほどして彼らは私の心配を他所に、その傷の箇所をひとりでに修復させた。
  葉は元気になり、枝をどんどん伸ばしている。
  
  どんな情報よりも、自分の身体から聞こえる声に耳を傾けることが大事だと思った。
  
  身体は動く。
  自分が思っているよりも、身体はずっと強い。
  そして、動かないから動かさないのではなく、動かさないから動かないのだ。
  細胞は能動的な意識の味方なのである。
  休むにしてもそれはある意味、積極的で能動的な行為であるのだ。

  生きる力は、信頼なのかもしれない。
  風邪は薬で治らない。筋肉痛は湿布で治らない。
  それらは手助けしてくれるだけだと山は教えてくれるのだった。