不立文字 | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。


 魚を捕まえて、バケツに放り込む。
 魚たちはしばらく暴れるのだが、そのうち静かになって、気付けばみんな、同じ方向を向いている。



  流れがあるわけでもない。

  もちろん、餌が入っているわけでもない。


  種類さえも違うのに、彼らはまるで誰かが並べたように一列になる。




  理由がわからない事柄に出会う。

  この場合、私は、魚の気持ちになってみる。

  でも、私と魚に共通するものはあまりにも少な過ぎて、まったく理解できそうもない。


  そもそも理解するということは、相手の身になるというよりも結局は、自分の理解している範囲に当てはめて、推し量るしかないのだと思う。


  理解という字面そのものが、

で解すると書く。


  魚たちには、理はなさそうだ。

  というか、そもそも理は彼らに必要がない。

  だって彼らはそのままで、こんなふうに秩序を持っているのだ。


  アリも魚も、私には感じることのできない部分を使って、セカイを感知しているようなのだ。


  太陽を太陽と名づけなくても、光を光と言葉で確かめなくても、彼らはそれらのことを私よりもとてもよく知っているみたいに思える。



 ー 仏教では、現実世界をどのように認識するかということがもっとも大切なことであり、その現実を現実のままに認識することをと言い、それを理論づけたり言葉に乗せることを理と言う。その意味で、仏典はすべて理であり、釈迦がさとった内容は「事」である。その意味で、「不立文字」は事の内容は言葉にできないことを説明している。ー

  



  この前、彼女を連れて帰ってきた息子が、自分の育った街の川へ、またまた網と釣竿を持って案内した。


  彼女は、これが本当に楽しいのだろうか?と私は疑問だ。

  私じゃあるまいし、こんなデート。(デート?)普通、やだろ。


  しかし彼女には、この空間にいるだけで、何か伝わるものがあったのだろう。


  ヤマメのメスのほとんどが海に降るとか、海外ではオショロコマも海に降るんだとか、息子に説明されて、彼女は深く頷く。

  こんな世界があったなんて。  

  魚って、面白いんだね。と。

  

  帰り際に明日、仕事に行くのが嫌になった。と彼女がふと呟いた。

  どうやら、楽しかったらしい。


  この体験をもって、俺を知れ!と息子は言いたかったのだろうか。(そんなこと考えるやつじゃないか。)


  一番初めに、息子がおもむろに網を川の端に入れ、足でバシャバシャと川底を踏み始めたとき。その慣れた感じに彼女はちょっとドン引きしていたんじゃないか。


  あとで彼女が笑いながらそのことを教えてくれたとき、そんなふうに私は感じておかしかった。


  私にとっては普通のことが、彼女には変なことに見える。

  しかしその変なところにですら、彼女は付き合おうとしていて、なんなら今度は海釣りに行きたいと言い出した。



  そう。息子は自分のことは、言葉では伝えられない。

  だから自分の好きなことを一緒に体験して欲しいのだろうか。


  息子と喧嘩した時に、彼女が私に電話をしてきたことがあった。


  私にしたら、やっぱりな。とおもう理由だったが、彼女にしたら、嫌われたのかと不安だったらしい。


  私はその時、むしろ、嫌いになったからじゃない。大好きだから、傷付けたくなくて、返事をしないんじゃないかと伝えた。


  どうか、信じて放っておいてくれない?と伝えた。でも、嫌なときはしっかり、それは嫌だと伝えてくれ、とも。


  相手には言葉で気持ちを教えて欲しいくせに、自分のことは察しろだなんて、随分勝手な話なのだが。


  でも賢い彼女は、私の言うことを瞬時に理解したのだろう。

  

  彼女に会った瞬間。私は息子が彼女のどこが好きなのか、よくわかった気がした。

  

  喜怒哀楽の激しい息子だ。

  それを何事もなかったかのようにすっと受け流すような天真爛漫さが彼女にはある。


  ずっとあとになって、私は息子に伝えた。

  正直に自分の気持ちを言葉にする練習をしろ。と。

  それがどんなに情けなくても、恥ずかしくても、その感情そのものは、間違いではない。


  その気持ちを否定するような人は、そもそも自分に必要ないだろ?

 でも、ほとんどの人はその気持ちと言葉に剥離がなければ、共感してくれるはずなんだ。


  その過程があってこそ、言葉がなくても伝わるような関係性は作られる。


  意識は自分の中にはない。

  そう教えてくれた人がいた。


  意識は、間にある。

  

  だから自分がまずあるのではなく、関係性が先なのだ。


  自分以外がいなければ、自分は認識できないのだから。

 そう考えると、相手に感謝する気持ちが自然に生まれるような気がした。