バカの壁 | 想像と創造の毎日

想像と創造の毎日

写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。


  職場の廊下には、季節ごと、行事事に各クラスの子どもたちが描いた絵が飾られている。

  運動会や夏休みの思い出、今は園庭にある桜の木の下で自分たちが遊ぶ絵が飾られている。

 しかしこの間、年少さんのクラスが描いた何のテーマもない絵が飾られていた。
  自分かお友達かわからないが、顔だけもしくは全身の人物像や動物、幾何学模様のように見えなくもない模様のようなもの、あるいはいろんな色のクレヨンを使って、画用紙全面を塗りつぶしているものなどだ。

  絵を見ながら私は、これはどの子が描いたのかなと想像する。この絵は何が描かれているからわかりやすいから、きっと言語発達の高そうなあの子かな、などと考えてから下の名前の部分を確認するのだけれど、半分は合っていて半分は間違っている。

  似たような絵があるからこれらはきっと仲良しの子達の絵だろうな、と考えると、それはだいたい合っている。絵の得意な子がいて、周りがそれを真似するというパターンなのだろう。

  未満児(三歳以下)、年少さんぐらいだと丸を繰り返し描いたり、線と点だけだったりして、何が描からているのかよくわからない。
  しかし二語文以上の言語を話せるようになる年少さんになると、ほとんどの子達が丸の中に点と線を入れて、顔のようなものを描けるようになる。

  私は絵が得意ではないし、習ったこともないし、絵のことはまったくわからない。
  仮に犬を描いて見せろと言われたら、下手くそで恥ずかしいから絶対にやだ!と拒絶するだろう。でも、りんごなら、いいよ。と言う。丸を描いて、ヘタをつけて、赤く塗りつぶせば、誰もがこれをりんごだと認識してくれるだろうと思うからだ。
 
  それは私が誰にも期待されてもいないのに、絵が下手くそなことが恥ずかしいと勝手に思い込んでいること、もしくは人を笑わせるほどの下手くそさでもないことがつまらないと思っているからだ。

  しかし子供の絵はすごい。
  どの人間の視覚からも得られる人物像を完璧に模倣しようと考えることもなく、自分の絵を描いて、と言われれば、躊躇いもなく、顔からいきなり手や足が生えた絵を描く。
  まるで今の自分には、モノを識別する目を中心とした顔と、何かを動かす手、大地を歩く足だけしかないかのように描く。

  肩も胸も、関節も髪型も無視だ。
  彼らに大事なのは、世界を知覚するために意識できるほんの一部。しかしそれが自分の全てであるかのように意識しないものはまっすぐに排除するのだった。
  
  

  養老さんはピカソは、"意識的に絵を描く際に、ノーマルな空間配置の能力を消し去った"のだとおっしゃっている。

  例えばイチロー選手の秀でた運動能力は、反応の速さだが、それは一般の人が知覚系の神経細胞から運動系の神経細胞に伝わるまでにたくさんのシナプスを経由するのと違って、その途中のいくつかのシナプスを省略していると考えられるというのだ。

  いわゆる"天才"と呼ばれる人は、そんなふうに脳の働かせ方が一般人とは違う。

  常人にはない才能というものが、知識の豊富さや思考の深さではなく、そういう部分を無意識に吹っ飛ばす。という考え方がとても面白い。


  ピカソの名言にこんなものがあるという。

ー10代でルネサンスの巨匠ラファエロのような絵は描けたが、子どものように絵を描くには生涯かかった。ー


  ただでさえ、絵というものがわからないのに、ピカソの絵がなんなのかなんてまるで理解できなかった。


  しかし養老さんの話とこの名言を読むと、なるほど。と腑に落ちる。


  晩年のピカソの絵のキュビスムが様々な角度から見た物の形をひとつに収める手法だと言われても、なんのことだかわからない。

  

  しかし世界は基本、カオスである。

  私の目が物質を構成する最小単位である素粒子を見ることができたら、その目で見るこの世界は何の形も持たないものだと認識するのだろう。


  りんごはりんごではなくなる。


  しかしそこから視力を悪くしていくと、あら不思議!素粒子の振動、振る舞いなどの違いで、私はりんごを認識することができる。さらにりんごは、りんごという言葉によって、私の中でより確かな存在になるのであった。



  私たちは見たいもの見、聞いたいものを聞く、とよく言われる。


  例えば本一冊読むにしても、同じ文章を確かに読んでいるにも関わらず、その人の心、あるいは思考に響くものはまるで違うのだ。


  バカの壁とはなんだろう。

  私たちが見ているもの、知っているものは、誰もに共通しているものではない。と自覚することなのかもしれない。


  だからこそ、養老さんは個性よりも人との間に共通するものを探せ、みたいなことを言っている(違ったらごめん笑)。


  個性なんて発揮しなくても元々みんな違っている。そんなことよりも、人の気持ちがわかる。ということの方が大事だ、と。


  ものすごく当たり前なことなんだけど、でもそれは同時にとても難しいともやっぱり感じる。


  本気で相手の気持ちを自分に当てはめらば、とても苦しいからだ。

  だから人は、こうしろ、ああしろ。と言う。

  自分の考えを押し付けたくなる。


  けれども共感は、相手の痛みを自分の痛みとして想像することだ。

  

  自分がそうなれば、私もあなたのように痛い。


  苦しい人にそれ以上の言葉をかけることが出来るだろうか。

  しかしその共感はときに言葉以上の意味を発揮するように思う。


  思いを背負ってもらえている。と思うだけで、自分の苦しみが軽くなるように思えるときがある。

  例えそれが自分の勝手な思い込みでも。いえ。思い込みかもしれないと疑いつつも、そう思い込める

場所に誰にも犯すことのできない自分の自由があるのだ。


  アートは時に人の心を傷付ける。と宮台さんはおっしゃる。

  

  社会はクソだ。大勢のために個を犠牲にする。 

  秩序を保とうとすれば、力を失う。

  

  法外の世界で、彼らはどこまでも自由だ。

  大人たちが持つバカの壁を吹き飛ばす力を持っている。

  



ーこの感動的なラストシーンでは<足萎えのオイディプス>の周りに無数の「女達」が群れ集います。そこで例の二項図式が再確認されます。男/女、草原/森、輪郭あり/輪郭なし、屹立/癒合、離散体/連続体、光/闇。<足萎えのオイディプス>は恐らく、クソ社会の中で犠牲になった者達を背負いながら、これからを生きていくことだろう……観客にそう予想させた処で映画が終ります。


<足萎えのオイディプス>として<社会>を生きてゆけ、治らない傷を隠して「なりすまし」ながら<社会>を生きていけ、という推奨でもあります。ー