クオリア | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。




今年は雪解けが早いからか、アイヌネギも芽を出すのが早い。



春を一気に呼び込んだのは、ここ2、3日の陽気ではなく、先週の雨だろう。



濃い緑が広がる場所を探しつつ、歩く。

アイヌネギは、小川のそばにあることが多い。



細いものには目もくれず、ひたすら太いものだけを探す。


よく似た葉っぱもあるけれど、アイヌネギは葉が丸い。

葉が広がると辺りには、ニンニク臭が立ち込める。



やちぶきの花が咲いている。

これも春の大切な山菜だ。

花をちぎって、茎を持ち帰る。

ちょっとだけ、心が痛い。





春の森は、歩きやすく、心地よい。

虫もまだいないし、草も低くて見通しが良い。

風は涼しく、鳥の歌声はメロディアスで、川のせせらぎはハーモニーだ。


優しい音と色が、意識に境目を作らない。

私は味わうことで、風景の最中にいた。


この"感じ"。


五感を通して何かを知覚したときに、言葉を介さずシャッターを切る。


いつも追いかけているのは、"感じ"なのだ。


水芭蕉の質感、カエルの卵の透明度、緑色の濃淡。

どうして?と思う前に起こる何か。

私にしか感じられないという孤独な経験。だからこそ高い純度。誰にも否定することできない唯一の私の所有物。

心はどこにある?何度も問い掛ける。

それは確実に私の中にある、むしろ私の中にしかない、というのに、私だけでは決して湧き上がることのない事柄。確かに所有しているはずなのに、いつもそれは同時に漏れてもいる。


ー与件(the given)の識別可能な質的特徴というものがたしかに存在する。それは異なる諸経験において復現(リピート)し、それゆえ、普遍者の一種である。それを私は「クオリア」と呼ぶ。そうしたクオリアは、この経験においてそしてあの経験において何度も認識されるという意味で普遍者ではあるのだが、しかし物体の性質とは区別する必要がある。 … クオリアは直接に経験され、与えられる。そして、いかなる誤りの可能性ももたない。というのもそれは純粋に主観的だからである。他方、物体の性質は客観的である。すなわち物体に性質を帰属させることは、誤りのある一つの判断である。物体を述定することで主張されるのは、ある単一の経験の中で与えられうるものを超越した事柄なのである。ー— ルイス『精神と世界の秩序』(1929年)




水芭蕉の苞の上は、柔らかいベッドだ。

気持ち良さげにカタツムリがくつろいでいる。



鳥の群れかと聞き違えるほどの大きな鳴き声が遠くから響いてくる。

しかし近付くとその音はすぐに止んで、鳴き声の主はどこにも見当たらないのだ。

彼らは本当に一斉に鳴き止む。

彼らの間を隔てるものなど、まるで何もないかのように。



これは、まさにタピオカだな。

手のひらに載せるとモチモチした感触で、美味しそうだ。