”社会的な悪とは何か (デュルケム)” | 想像と創造の毎日

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https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/kotoba06/22jb_6_hosogai.pdf(社会的な悪とは何か 細貝健司)


  神を信じるという文化、思想が理解できなかった。

  それに代替するものは、実家にある先祖が祀られた仏壇であり、季節ごとにお参りにやってくる住職さんだったのかとも考えるが、それはユダヤ、キリスト、イスラム教を信じる人のそれとは、意味が程遠い。


  その住職さんは、幼い私にとって、人間の一番美しい姿であった。静かなリズムを持った重厚な声色のお経、家族や他人に疎まれる祖父の話を最後までにこやかに聞き続ける傾聴の技、無駄がなくゆったりとした趣のある所作。そのどれもが、人間としての完璧な美しさを持っていたが、しかしそれは神とは違う。


  仏壇の前に座る祖母は、手を合わせながら自分の願い事を口にする。その願いはどれも俗物的であり、だから私にとって仏様は人間の願いを聞いてくれるかもしれない存在、もしくは人間が見えない何かにすがることのできる存在であった。


  そして、悪行(社会の迷惑になる行為)を重ねる人間は、死んだ後に地獄で閻魔様に裁かれる。そのストーリーは絵本やテレビで観た日本昔ばなし等から私の無意識に刷り込まれたものである。


  仏様と閻魔様は、私の中で神とイコールであった。つまり、現世に生きるものが死後、天国に行くために善行を重ねていくのが人生である。悪行を行い、それが他の人間に見つかれば法律で裁かれ、罪を償わされることで来世にその罪を持ち越すことはないが、もし見つからなかったとしたらそれは、死後に閻魔様に裁かれることになり、私は地獄で釜茹でにされるのである。


  しかしその刷り込まれた思い込みのストーリーは、一人の人間が欲のままに行動し、その結果、社会が犯罪で溢れることを防ぐひとつの機能を持っていたのだとも感じる。

  例えば私は幼い頃に一度だけ万引きをした。50円ほどの消しゴムだ。他の友達も行っていたからその瞬間はまったく罪悪感が沸かなかったのだが、それが見つからなかったことが逆に私にしばらくの間、罪の意識を与えた。それは、私は常に私以外のものに見られていて、この罪はいつか閻魔様に裁かれるという物語を信じていたからだった。


  私にとって神は、私を律するものだった。常に私を見張り、私を善悪の判断の中で行動させるものだった。

  その善と悪の境界線は、社会にとっての善悪の基準に準拠している。


  つまりライプニッツのいう充足/欠如という善悪の対立ではなく、デュルケームの言う有益/有害であったのだ。



  神の名の元に、人々からの搾取を正当化するようになったカトリックは、プロテスタントという教会ではなく、聖書に忠実な教派を分裂させる。


  聖書の研究。(私の恣意的な考え方ではあるが)それはつまり物事を細分化して優劣を付けるという科学的な活動を活発にさせ、それは人々から本来の神の機能と意味を本質から遠ざけることにもなる。


  神はただそこにいて見守り、人の持つ原罪(生き物はあらゆる命を奪わなくては生きていけないものと簡単に私は解釈しているが)を慰める機能が、人々の欲望を叶える偶像に変化した。それは、私が心の中で自分に起きて欲しくない出来事と起きて欲しいことを内なる名前だけの神様に願うことと同じ。つまり、神は恣意的な自分の願いを叶えるためだけのものに変化した。


  神がいなくなった人々に神の視点での善悪の概念は通用しなくなる。

  人は言葉の種類が多くなるにつれて、複雑、かつ明確になった物事に意識を向けることにより、逆にその背景にあるものを想像しにくくなる。




  答えがない。という事柄を受け入れられなくなる。

  物事には必ず原因と結果が存在し、行動には理由と意味が必要になる。


  かつては苦しみも悲しみも死も、生の中に含まれていたのだと思う。それは、自然界の植物や生物を観察しているとわかる。

  人間がまだ本能に根ざし、言葉に頼らず、動物的な感覚を持って生きていた頃。性の営み、もしかすると同族を殺すことさえ、自然の営みの一部であったかもしれない。そこには神も法も存在しない。だから、罪も償いもない。


  狩猟から農耕に移行し、人々が定住することで所有の概念が生まれた。それまで食べ物は育てるものではなく、自然から分けてもらうものだった。漫画美味しんぼでアボリジニが出てくる回があったが、そこでは獲物の一番美味しい部分を狩りに参加せず、何もしていない人が食べていた。しかしそのことを誰も責めたりしない。それは、自分の体力や経験や知識や時間を犠牲にして育てたものではないからだろう。獲物はごく偶然に目の前にやってきて、自分はそれを捉えただけ。つまり、運。運が良くなければ自分は明日にでも死ぬ。今日は運が良かった。運が良かっただけの自分が得たものを仲間に分けることはごく当たり前だ。独り占めして他の仲間が死んでしまえば、自分はひとりぼっちになる。今も昔も人間にとって孤独による孤立は一番の受け入れ難い事象だろう。





 農耕に移行し、人間は長寿を得るようになる。

 それは死の拒絶の始まり。

 作物を栽培することで、生きることを運に頼らなくても良くなった。

  しかし作物は容易に天災によって、全滅する。

  なので、空を見て、天災を予測するようになる。

  それは、太陽、月、星、つまり空(宇宙)の動きの観察だ。

  それらは、その頃の人々にはまるで人間のように感情があるように思えた。幸せそうに温かな光を降り注いだと思えば、嵐や雷のような激情をぶつける。


  その様子を見て、人は神を作り出す。

  神は死に抗うための人間の最大の発明だ。

  その動きをなぞらえて、神話を綴る。

  木や火や星や太陽は人の形を持って、物語の中にいる。

  それらは規則的であり、数字や言葉で記録することで後世に残すことにした。


  しかしここでも依然として、死からは逃れられない。

  だから死と共存するために、死を受け入れるために、宗教が必要になった。


  フランス革命以降、啓蒙主義が社会に浸透し、それまでは一部の人達だけが知ることの出来た知識が大衆も多少なりとも得ることができるようになる。


  1789年。

  人は生まれながらにして自由かつ権利において平等である。

  思えばこのフランスにおける人権宣言が、人々を神から遠ざけ、自然の循環システムから機械的システムを加速させるようになった転換期であったのかもしれない。

  それ以前にあったフーコーの言う、華々しい身体刑(王 対 民衆の命を懸けた祝祭的な見世物)はなくなり、パノプティコンは効率的にかつローコストに機能し、人々を社会の内に閉じ込めた。




 神というよくわからない存在では、もはや人々は救われない。

 というよりも最初から、人間には罪などない。

 あるとしたら、社会システムを邪魔する存在。社会に貢献できない、生産性のない、富を生み出すことのできない無能な人間こそ、罪な存在である。

  できるだけたくさんの欲望を叶えることが生きる目的であるかのように思想が転換される。

  幸福は物質の消費行為。

  有能な人間には、名誉と富が与えられ、無能な人間はそこからわずかに分配されるお金で生活する。

  人々は死なない程度に、安全で便利なさほど苦しくもない世界で生かされ、変わらないルーティンを繰り返す。平和な社会は利己的な人々、あるいは退廃的な人々を増産し、そのことが社会を弱体化させる。


  利己的な活動の中でやがて富は一極に集中し、富裕層と貧困層に分かれ、中間層はなくなる。はっきりとした上下の世界に分かれたときに、社会は自身の存続のためにあらゆる禁忌を強要する。

  それらは人々に苦痛を生じさせるが、同時に人々の臨場感を高める。


  しかしそれだけでは社会はまだ存続させるエネルギーを持たない。聖なる世界の召喚が必要だ。忘我の境地に至るような祝祭にあたるもの。そのとき個人は日常から解放される。


  社会は聖と俗を繰り返し、悪の価値を転換させて、動的平衡を成立させる。





ーデュルケムの「社会的悪」とは、アウグスティヌスが『自由意志論』の中で考察した「悪」と本質的には共通していると言える。有機体としての社会の自己保存、そのための社会的統合の維持という「善」があらかじめ設定されており、「悪」は、その「善」が内定あるいは外的な危機に晒されたりしたときに、善を新たに再生させるための「中間善」という論理構造となっている。そして悪は「表層」あるいは「記号」として昇華されることで、「社会善」のエネルギー補充へと寄与する。というのも、社会そのものが集合表層で出来ているからだ。ー



ーあるいは、デュルケムに倣い、「悪」とは、「有用性のない欠如」を生きることを我々に余儀なくさせる「俗」な社会そのものと言えるかもしれない。もはや、「俗」な世界の外に触れられない我々は、「充足」が何かもわからないのに、それでも「欠如」を埋めていかなければならない。その生そのものが「社会的な悪」なのではないか。たどすれば我々はそれとどのように向き合い、それをどのように解消すれば良いのだろう。


  二十世紀初頭の、物質主義が蔓延し、急速に俗化する社会の中で、デュルケムも同様の問題に直面し、悶絶しながら、古い神々の死後、新しい神々がまだ生まれていないと書いた。一世紀の時を経て、我々はまだその神の誕生に立ち会っていないのだ。ー