雑記 | 想像と創造の毎日

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  成田さんがダボス会議の意味について、とてもストレートで面白いことを言っている。


  世間の反応と言えば、コメント欄を見るとほとんどが彼に対する拒絶反応に近いものが多い。


  宮台さんが自分は"アリの視座"でモノをみる、というようなことを前にどこかで言っていたが、成田さんも場合も同じだと私は感じていて、でも違うのは、宮台さんは先天的にそのような見方をするが、成田さんは後天的にその見方をするようになったのではないか、ということだ。


  宮台さんは本質的には自分は何事もどうでもいい。と言っていて、けれども言葉を発すると論理的ながら情熱的で、その落差に私みたいな人間は容易に感動させられるのだが、成田さんはどうでもいいという雰囲気を言葉の端々から感じるのだが、本質的には人の感情が見え過ぎて、受け取りやすいということがあるように感じる。


  成田さんは、アリの視座で物事を見てしまうのではなく、アリの視座で物事を見ようとしているのではないか。

  自分が人との距離が遠いのは、嫌いになりたくないからとか、人を裁きたくないからだと何かで言っていた。

 その感覚はとてもよくわかる。
 人はどんなに客観的に自分を見ようとしてみても、意識というものが他人と共有できない以上、結局は自分の物差しで物事を推し量ってしまうものだ。
 
  人にはいい面も悪い面もある。
  遠くから眺める山が、バランス良く美しく見えても、中に足を踏み入れれば、とても複雑で怖い面を孕んでいることと同じように。
  



  "コスパをよくしたければ、死ねばいい。"


  本当にその通りで、人は損をしたくないから、時間と手間を惜しむように便利さを追究してきたけれど、実は無駄を楽しめることこそが、人間が人間であることの証なんじゃないかと私も思う。


  堀江さんとの対談で成田さんが、彼の曲を"クセになって、何回も聴いている"と言ってたのがあって、これはまたまたすごい皮肉だなあと私は笑ってしまったが、堀江さんはありがとうございますとか言ってて、この方はこの方で、ある意味純粋なのかもしれない…と思ったり、思わなかったりする。



  米津玄師さんのドーナツホールは神曲だ。

  何回聴いても、泣ける。


  どの曲もそうだが、これはストレートに哲学的命題を含んでいる。


 ー何も知らないままでいるのが

    あなたを傷つけてはしないか

    それでいまも眠れないのを

    あなたが知れば笑うだろうかー


の部分に代表されるように、前編に渡って、そもそも矛盾だらけの歌詞だ。


  知らないままでいるなら、傷付けているかどうかすら考えないはずだし、彼女がそれで傷ついているなら、笑うなどとは考えもしない。


 ー死なない想いがあるとするなら

    それで僕らは安心なのかー


  欠けたものを満たそうとして、変化することのない不安のない未来を得ようと時代は進むけれど、そもそもそれで、幸福だと言えるんだろうか?


ーこの胸に空いた穴が今

   あなたを確かめるただひとつの証明ー


  不在が、逆に存在を知らしめるということ。

  

  人には、闇がなければ、光を感じられないみたいに、そもそも認知とは反対のものを比べることで成り立つ。


  


  聖書に知恵の実を食べて、人間は堕落したとかいう部分があるが、この言葉はものすごい発明だなあといつも思う。


  知りたいという気持ちが、悪なのだ。

  しかしそれがなければ、人間は人間ではなくなる。


  バタイユのいう聖俗。

  死というカオスは聖なるもの。

  生を繋ぎ止めるための社会と仕事は俗なるもの。


  聖とは、認知の檻に閉じ込められていない、本当の自由を指し示すものだからなのだろう。



存在論のテーマは突き詰めると「何が在るのか」と「なぜ在るのか」の二つの問いに収束していくとも言われるが、この問いは後者の「なぜ在るのか」にあたる問いである[5]。”何が”在るのかに関しては、現代の科学である程度答えを出すことができる。

よって”全ての(発生する)命題の起源は、総じてこの謎に帰結する”とも言われる。ー