実家の空き地は以前、祖母が家庭菜園を営んでいた。
新たに鍬を入れようと思うのだが、笹が生い茂っていて、思うだけで躊躇っている。
なんたってヤツらは、根が深く、しかも複雑に絡み合っていて、それを取り除くだけで途方に暮れるのだった。
秋鮭釣りや山菜採りのときは、背丈まである笹薮の中を漕いで行かなくてはならない。
笹は踏み倒しても、またすぐに立ち直ってしまう。
笹は山歩きに邪魔だった。
けれども、川の両脇にある斜面にびっしり生えた笹は、その強い根で大地を支えてもいた。
時々、斜面が崩れ落ちて、大木が倒れているところがあるが、付近には笹があまり生えていなかった。
以前、子供と探検した川にいた大学の先生が、笹は100年に一回ぐらい花を咲かせるんだ。と言った。そのときには、良くないことが起こるというふうにも言われている、と。(良くないこと…のくだりは誰が言ったか記憶にないが)
ーササにとって一斉開花と枯死による更新はリスキーな戦略だと思うんですが、時々は遺伝的多様性を高めるためのギャンブルをするのかもしれません。
# 普段は、ほとんどが同じ遺伝子のクローンだから。(^^;;ー
上記は、リブログ先の水円さんのお返事でいただいたお話だが、笹の一斉開花とそれに伴う枯死(そのあと枯れることも知らなかった!)は、単に枯れることが死を想起させるから不吉だというわけではなく、一斉に枯れることによって、崖崩れなどの災害を招くからなのかとも思った。
大きな川の付近には、今でもアイヌの居住地の跡が残っているが、まだ文明の発達しない時期においては、川の近くで生活するのが便利だったのだろうけど、川の氾濫や崖崩れなどの危険がいつも隣り合わせだっただろう。
実際、母の幼い頃も近所の家が鉄砲水に襲われ、急いで2階から布団を運び出したことがあったと言っていた。
いわゆる迷信は、そのような過去の辛い記憶を自然現象になぞらえて、継承していったものなのだろう。
しかし、"一斉開花と枯死が、遺伝子の多様性を高めるためのギャンブル"という表現にひどく心を揺さぶられるのである。
彼らは雌雄の交配による種子で増殖する多様性を選ばず、自身のクローンをひたすらに作り続け、そして一斉に枯れることを選んだ。
笹は、あの集団そのものが個である。
だからこそ、あれだけ根は絡みついて深く、なんなら葉は、季節を問わず茂り続ける。
葉が、漬物の際に防腐剤や殺菌作用を期待して使われてきたことも頷けるのである。
咲いて、枯れる。
実らずに、枯れる。
そのことを彼らに決断させるものは、何なのだろう。
単純に自身の老化に伴う周期性か。
それとも、自分を取り巻く環境の変化に呼応するものなのか。
あの邪魔で鬱陶しい笹が、森を支えているという側面、事実。
彼らが朽ちるときには、他の生き物も無傷では居られないという悲しみ。
