自然豊かな田舎に住んでいるとは言っても、所詮、人里である。
近所に熊が出没したという知らせを受けても、私には身を隠す家屋がある。
車で小一時間ばかり先にある自然は、自分が住む場所とは比べ物にならないぐらい豊かであり、同時に恐ろしい。
トレッキングの下見のために寄った施設のすぐ側に登山口があるのだが、いきなり深い森の中を分け入るところから始まっていた。
どこを見ても、熊の気配がするような気がして、もう自分は二度と、山に登れないような気持ちになった。
恐ろしいのに同時にあの頂上に立ってみたい衝動に駆られる。
湧き上がる欲望は、いつもリスクに後押しされているのだった。
自然に生まれるものを容易に変えようとせず、何かを作り続けようとはしない意識は、その循環の中でひとつの大きな輪を乱さずにいる。
わざわざ自然を大切に。と言わなくてはならないのは、その遺伝子の本質に自然を破壊する意思が組み込まれていることを知っているからなのだろうか。
破壊衝動が自らに及ぶから、常に理性を脳の中で言葉として意識しなくてはならない人間。
そして、文明が死を遠ざけるほど、生きることについて大切な何かを手放していると、動物たちや、山を眺める度に思うのだった。
熊が出るというのに、その深い自然の奥地を体感したいと思うことは愚かだろうか。
人の手がつけられていない自然に自分が飲み込まれていくような感覚をもたらすあの孤独。
いや、あれは。
自然と自分が、恐ろしさという感情によって剥離されていくことの怖さだ。
目が合うと母鹿と子鹿たちは、いつも怯えたように身体を震わせる。
けれどももし、自分たちを襲う熊が現れれば、逃げ遅れた命を助けることなどしないだろう。
君たちの命は、死の向こう側まで続いているんだ。
科学で生き長らえてきた人間も、結局は同じであるのだろう。
不死を願いながら、今に犠牲を払う。
そこに自然が介入しないから、違和感になるだけで。



