キーケースジプシー | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

  一人暮らしが気楽なはずなのに、なぜか疲れが取れない。


  週末になると、娘を迎えに行き、車の運転の練習と買い物に付き合っているからだ。


  娘はストレスを解消する方法をウインドーショッピングに見出していた。


  何を買うわけでもないのに、ウロウロと雑貨や服を見て回る。


  その習慣をとっくに手放した私には、その行為が逆にストレスになっていた。


  物の多さに目眩がするのだ。

  買い物が嫌いな訳ではなく、むしろ好きではあるが、その欲はスーパーの魚コーナーや道の駅の採れたて野菜や、小さな名も無き作家さんの雑貨を見るだけで充分なのである。

  つまり、歳を食ったのだ。


  けれども、この間から、キーケースはずっと探している。


  今は革の少し大きめのケースに家や自転車や車の鍵をひとまとめに入れているが、チャックの開け閉めがめんどくさいし、昨今の車の鍵のデカさにいちいち突っかかるのだ。


  スマートキーとエンジンスターターのリモコンがデカすぎる。

  スマートキーだけをしまうものはよくあるのだが、二つがスッキリ収まるものが見つからない。

  あったとしても、デザインがダサいのだ。

  皮のなめし方とか、縫製の糸の色や素材など、細かい部分がどうにも気に入らない。


  ちょっとしたブランド物を探してもみるが、値段の高さの割には量産的な感じが嫌だ。


  しかもどれもこれも、デザインは違っても仕組みは一緒なのだ。

  

  家の鍵を付ける部分は伸び縮みして、スマートキーとスターターのリモコンはスッキリと落ちないようにしまえるものがいい。


  一枚レザーで縫い合わせてあり、端っこは切りっぱなしがいい。

  すべすべとした皮ではなく、使い古すほどに味が出るようなナチュラル感のあるタンニンなめしがいい。

 

  手持ち無沙汰でお店をウロウロしていたら、雑貨市のようなものをやっていて、素人さんが手作りのアクセサリーやら、革小物を売っていた。


  その中の革のキーケースを長い時間、手に取りながら、やっぱり気に入るものがなくて、仕方なく千円の小物入れを買った。

  イヤホンやスマホの充電器がカバンの中でいつも暴れていることを思い出したからだ。


  気のいいお姉さんが、使い方などを説明してくれて、それに甘えた私は思わず、自分が本当に欲しかったものについて熱弁してしまった。


  お姉さんの皮の選び方、縫製の仕方、ボタンのセンス、好きなんです。この感じで、鍵が全部、スッキリしまえるキーケースを作って欲しいんです!


  お姉さんはしばし悩みながら、月に一度はここで出店してるので、ネットで案内もしてますから、また足を運んでくれますか?と言った。


  需要があるとは言えないから、無理強いはできないけれど、私は密かに期待している。


  なのに、ネットで間に合わせのように革のキーケースを買ってしまった。

  革のなめし方はいいけど、色が少し気に入らない。

  使い勝手も妥協したけど、今のキーケースの使いづらさから、今のよりはいい。

  一刻も早く、この毎日、鍵を取り出す度に軽くイライラするストレスから解放されたかった。


  私はいつもキーケースを探している。


  息子の住む大きな街のデパートで。


  娘の住む自然豊かな田舎町の道の駅で。


  イオンの若者向きの雑貨屋で。


  地元の大型スーパーの入口のガラスのショーケースにある、名前だけが独り歩きして、庶民の手が届く値段になった海外ブランドの革製品の前で。



  けれども、いつまでも理想に出会えない過程を、時間の無駄遣いのように過ごすのは嫌いではなかった。


  バッグパックも、スマホケースも、ゴアテックスのジャケットも、これが完璧だと思うものに未だ、出会えない。


  自分の中では、機能やデザインの理想がはっきりと思い浮かぶのに、浮かび上がっているからこそ、出会いは遠のいてもいる。


  きっと何かを作り続ける人は、こういう不満足を意識するから、その情熱を保ち続けられるんだろう。


  何かを探求し続ける人も同じだ。


  それが、見返りの大きさの方に満足感を求めると、途端に作ることや探求することの意味が色褪せてしまうように思えるのはどうしてだろう。


  ハイブランドのバッグや服が、そのブランドの背景を知らずに自分の価値を高めるものだと感じた瞬間から、どこか俗っぽく感じてしまうのだ。


  調べてみると、俗っぽい。とは、低俗で品位に欠ける様子だそうだ。


  低俗で品位に欠けるものが、高貴で上品な文化の真似をして、自己満足に浸るからこそ、この世は物が溢れている。


  それは経済を循環させたけど、人が人であることの根本的な誇りを徐々に失わせたのだろうか。


  欲の種類の多さに時折、目眩がしそうになる。

  分業された生産的な社会は、自分を自分で楽しませるために手をかける暇を他人に譲り渡すから、物を闇雲に手に入れられても、虚しいのだろうという想像はついた。