朝の体温は、いつも通りきっかり37度だ。
脇の下で測られるとアウトだ。
しかし差し出された体温計はおでこで測るタイプだったので、無事に難関は突破することができた。
卒業証書は、時間短縮のため一人一人には手渡されず、私の自慢の望遠レンズを装着したカメラの出番は少なかった。
校長や来賓の長い挨拶を聞きながら、眠気に襲われる。
三十分以上、黙って座っているのが苦手である。
面白くない話だと余計だ。
努力しましょう。感謝を忘れずに。だなんて、執拗に繰り返されると、そんなわかりきった話よりも、私は自分の息子があの壇上で卒業証書を手渡される瞬間の方に時間を割いて欲しかったと身勝手な思いに駆られる。
その眠気を覚ましたのは、息子とよく喧嘩をしていた生徒会長でもある子の挨拶だった。
成績が良い子ではなく、文章も話し方もたどたどしい。
けれども、これまで聞いたどの大人の言葉よりも、ぐっと心に迫る。
それは彼が、この高校生活がいかに楽しく、いかに友達と過ごした時間が大切だったかが、よく伝わってきたからだ。
ーおまえ、オレらより賢いんだから、
わかるだろ?
っていうか、わかれよ!ー
彼が息子と大きな喧嘩をしたときに、息子に送ってきたLINEの一文が思い出される。
彼が自分の不器用さゆえにしてしまった生徒会長としての失敗で、他の生徒たちが迷惑を被った時、息子が執拗に責めたときに彼はこんなふうに言ったのだ。
息子は賢いとか、賢くないとか、関係ない!(しかも客観的に見て本当に賢くはない)と、その文にさえ、怒りを募らせていたけれど、私はどうしてかその言葉に彼の不器用さと純粋さを感じて、思わず泣けてきたのだった。
行きつけのコンビニでバイトをしている彼は、そんなに会ったこともない私が、しかも、私の方が息子の友達だと気付いていないにも関わらず、息子のお母さんだとわかっていて、タバコの銘柄を覚えてくれていた。
ーいつものですね?ー
タバコの銘柄を言い淀んだ私に笑顔でそう言ったとき、彼は、息子よりも確かに成績が良くないけれど、息子よりもずっと社会性があるし、人間として魅力的だと思ったものだ。
会場を出て、ふと近くにいた人が、息子の彼女のおばあちゃんだと、すぐにわかった。
彼女に似た華奢な身体に、まん丸の可愛らしい目だったからだ。
それでも声をかけるのを躊躇っていたのだが、すぐに私の友人が教えてくれた。
ーさっき、私の後ろの席で、いつもお世話になっている○○くんのお母さんにご挨拶がしたいんだけど、どの人がわからないって、あの人が言ってたよ。早く、声をかけなよ!ー
私が声をかけると、彼女のおばあちゃんは、彼女そっくりの満面の笑みを向けてくれる。
やっと、会えた!という気分になり、お互いに手を取り合いそうになって、そしてお互いに慌てて引っ込めた。
ーうちの子が、いつも頼りにして、助けてもらっているみたいで。
手術のあと、思うように歩けなかったときにおぶって階段を上ってくれたりとか。
本当にいつも、良くしていただいて。
あの子は、母親も兄弟もいない寂しい子だから。
ありがたく思っています。ー
おばあちゃんの御丁寧な言葉に、彼女の素直さを垣間見る思いがした。
このおばあちゃんに大切に育てられてきたのだろう。
息子どうこうよりも、息子を取り巻く環境のありがたさに泣けてきた。
最後に担任の先生が言った、
ー初めての担任でした。
だから、あなたたちのことは一生忘れません。ー
という言葉で涙腺は崩壊だ。
どんなに練られた上手い文章よりも、どんなに豊富な知識で熟考された挨拶よりも、ただ今の感情にもとずいた素直な言葉よりも胸を打つものはない。
不器用でいいんだ。
賢くなんてなくたっていい。
素直で、自分の感情に正直であることほど、人の心を揺さぶるものはない。
努力も感謝も人に言われてするものではない。
自分が必要だと思った時に努力は生まれ、自分が自分だけでは生きられないと感じたときに感謝は湧き上がるものだからだ。
でも素直さと正直さは、その子がその子でしかないということを周囲から認められる過程でしか培われない。
そしてそれは、失敗や間違い、嫉妬や怒り、悲しみといったネガティブささえ、自分が所有できるものの大切なひとつであることを受け入れることだった。
